あらゆる国の人々を弟子としなさい

KASUMIGAOKA   2016/11/06

Sermon:  「あらゆる国の人々を弟子としなさい」  “Go, Make Disciples! ”   
Text: Matthew 28:16-20

I. Introduction: 主イエスの最後の指示

 
ふたりの女たちがイエス様の空の墓を見た時、主の使いは、彼女たちに言いました。「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。」それから、死人の中からよみがえられた主イエスご自身に出会って、女たちは前と同じように、行って、主の弟子たちに大切なメッセージを伝えるように言われました。そのメッセージは、主イエスが本当に死人の中からよみがえられたことと、ガリラヤに行って、そこで主イエスに会えるということです。「主イエスがよみがえられた」という「良き知らせ」を伝える特権は、初めにそのふたりの女たちに委ねられたのです。しかし、その時から現在まで、すべてのキリスト信者は、同じように「救い主なるキリストが死人の中からよみがえられた」ということを宣べ伝えるように言われています。主が再びこの世に来られるまで、「主イエスがよみがえられた」ということをあらゆる国の人々に伝えて、彼らを主のみもとに導き、弟子とすることは、キリスト教会の兄弟姉妹に委ねられた務めなのです。ただいま、主イエスが女たちをとおして、その弟子たちに示された務め、または使命を考えてみたいと思います。 その使命について、マタイはこの箇所で五つの質問に答えるのです。その五つの質問は、簡単に言えば、主の与えられた使命に関して、まず❶だれが、それから❷どこで、❸なぜ、❹何を、そして❺どのように主の使命を成し遂げるべきかということです。マタイは順番にこの質問に答えてくれます。マタイの順に従って、この質問を考えたいと思います。

II. Five Questions Concerning the Great Commission 大宣教命令に関する五つの質問

A.  だれが。まず、だれがこの使命を成し遂げるべきなのでしょうか。16節と18節を読みますと、主がこの命令をご自分の11人の弟子たちに与えられたことが分かります。この11人の弟子たちは、最初の12弟子の残っている使徒たちです。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダはもう亡くなったので、この11人の弟子たちは主イエスを信じて、主に従う群れを代表する者です。この使徒たちは、キリスト教会を代表する者として主の大宣教命令に従って、教会を世界中で立てたのです。しかし、彼らだけではなく、使徒の働きの記録によると、他のキリスト信者たちも、主の11人の使徒たちの模範に倣い、出かけて、主の福音を広めて、教会を建てたのです。使徒の働き8:1、4にこう書いてあります。「エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。...他方、散らされた人たちは、みことばを宣べ伝えながら、巡り歩いた。」初代教会から、大宣教命令の仕事は、最初の11人弟子だけではなく、教会全体によって行われたのです。ですから、だれが主の使命を果たすべきかと言えば、聖書は、それがキリストの教会の責任だと答えるでしょう。使徒パウロがテモテへの第二の手紙2:2で言ったように、「多くの証人の前でわたしから聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」代々に渡って、主イエスが使徒たちにゆだねられた務めが、他の忠実な人たちにゆだねられて、現在の教会まで渡って来たのです。だから、教会の務めとして、昔の大宣教命令は、現代まで、実は、主の再臨の日までも有効であると思います。   

B.  どこで。 第二に、マタイは、主の宣教の仕事はどこでしなければならないかという質問にこの箇所で答えるのです。ほかの共観福音書と違って、マタイの福音書によると、よみがえられた主イエスが弟子たちにお会いになったところは、ガリラヤだったそうです。マタイは他の出会いを記しませんでした。でも、なぜイエス様がガリラヤで彼らにお会いになったことを強調したのでしょうか。それは、ガリラヤという地方に異邦人が多くいるからでした。マタイの福音書は、特にユダヤ人を伝道の対象にして書かれたとよく言われています。けれども、初めから、マタイ伝に記された主イエスの主な宣教の働きは、異邦人の多いガリラヤという地方で行われました。ですから、マタイによると、主の命じられた宣教の働きも、異邦人の地方、とか異邦人の国で行わなければならないそうです。先週私が言及しましたように、主イエスは、イザヤ書9:1の預言が成就するために「異邦人のガリラヤ」で初めに御国の福音を宣べ伝えられたわけです。それに、マタイは、12:17でも、主イエスが異邦人の多いガリラヤで福音を宣べ伝えられたのは、「預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。』」従って、主が異邦人のガリラヤで、宣教の働きを始められたように、マタイの福音書の終わりに、よみがえられた主イエスが、異邦人のガリラヤに戻って、異邦人の中で大宣教命令を果たし始めるように弟子たちに言われたようです。キリストの弟子たちは、自分の民や、なじんだ社会、風土、習慣などの中でだけではなく、自分の快い故郷を出て、「あらゆる国の人々」の中で、主の大宣教命令を果たさなければなりません。主イエスキリストは本当に世の救い主だからです。現代には、私たちはほかの国に行く必要がないかも知れません。なぜなら、あらゆる国の人々は、仕事や教育の関係で日本に来るのですから。しかし、あらゆる国の人々に主の良き知らせを伝え、証しするために、やはり勇気を出して、立ち上がり、その人たちのところに行かなければなりません。その人たちは、近くにいるかもしれません。主の与えられた使命を果たすために、まず、周りを見ながら、神様の指導を求めて、証しする機会を与えられますようにお祈りしましょう。

C.  なぜ。 第三に、なぜ教会の皆は宣教の働きに励まなければならないかと言えば、マタイは主イエスの答えを18節で記したのです。そこで主はこう言われました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」それから、19節で続いて言われました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」すなわち、主イエス・キリストにすべての権威が与えられていますので、主の弟子たちはその宣教の奉仕に励む動機が十分あるという意味です。たとえば、会社の中でみんなは社長の権威を覚えているので、日毎に与えられた仕事を済ませるように努力するでしょう。それは、目上の人がその仕事を要求しているからです。ある程度、仕事をする動機は上から下って来るでしょう。主の弟子たちは、すべてよりも、主イエスの限りない権威を認めたゆえ、主が言われたとおりにその宣教の務めを果たすように励むでしょう。
マタイは17節に、よみがえられた主イエスに会った11人の弟子たちはみな、キリストを礼拝したと書いてあります。「しかし、ある者は疑った。」何を疑ったのでしょうか。イエス様が復活されたことではなかったでしょう。自分の目の前に立っておられる方はイエス・キリストであることを疑わなかったでしょう。でも、いったい何を疑ったのでしょうか。ここで「疑った」と訳したギリシャ語の単語は珍しいことばです。聖書の中で、この単語が用いられた別な個所は、マタイ伝14:31だけです。その時、湖の水面に歩いておられるイエス様を見てから、ペテロは主イエスのお呼び声に応じて、舟から出ました。彼も水の上を歩いて主イエスのほうに行き始めたのです。しかし、行く途中で、イエス様から目を離して、周りの風や波を見ると、こわくなり、沈みかけたのです。イエス様はすぐに手を伸ばして、ペテロをつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」その時、ペテロは何を疑ったのでしょうか。周りの嵐の力と自分の無力の事態を自覚すると、「本当に主イエスに頼ることが出来るか、本当に主イエスが救い出すことが出来るか」というような疑問がペテロの心に浮かんで来たでしょう。よみがえられたイエス・キリストに会った弟子たちも、それと同じように思ったかも知れません。この世においては、天の御国の前進に対して多くの妨げが立てられているでしょう。よみがえられたイエス様さえも、この堕落した世界の中で、私たちをあらゆる敵から救い出して、勝利に至るまで導くことがお出来になるのでしょうか。弟子たちの思いも疑いも知っておられる主イエスは、答えて言われました。「心配してはいけません。わたしには、天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」つまり、すべてを支配しておられる主イエスが、ご自分の弟子たちを支えて、助けてくださるから、弟子たちは心配したり、疑ったりする必要はありません。 さらに、いっさいの権威が主イエスに与えられたのなら、主に頼る者は、その宣教の務めを果たすことができるまで頑張るはずです。宣教の奉仕に励む弟子たちは、抵抗や拒絶、試練や迫害に会っても、あきらめないでしょう。それは、その宣教の成功は、弟子たちの能力や知恵にかかるわけではなく、いっさいの権威ある主イエス・キリストにかかっているからです。その宣教命令を教会に与えられた主イエスは、宣教の務めに励む教会に実りと、最後に成功を与えてくださることを信じております。だから、なぜこの宣教の奉仕に励むべきかと言えば、それは天においても地においても、いっさいの権威を持っておられる方が命じられたからです。それに、主イエスは、その宣教の働きに専念する弟子たちに、霊的な実りを与えてくださるし、成功に至るまで導いて祝福してくださるからです。父なる神様の右に着座された主イエス・キリストは、弟子たちの宣教の成功によってご自分の主権を示しておられます。ですから教会の王なるキリストのご栄光を現すために、宣教の務めに励むべきです。     

D.  なに。 第四に、宣教の使命を果たすために、何をしなければならないのでしょうか。主の大宣教命令の最終的な目的は、神様のご栄光を現すことでしょう。しかし、具体的に言えば、宣教の活動は、目前に起こることを狙ています。イエス様は19節で、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われました。宣教命令の目的は、福音を広めて、主の良き知らせを宣べ伝えることだけではなく、むしろ、みことばを伝えることにより、ほかの人々を弟子とすることです。ある人は、すぐ主イエスの弟子になりたいと思うかも知れませんが、日本の場合は、そのような人は珍しいと思います。幾年もかかるかも知れません。皆さんはどうでしたか。イエス様の話を聞くとすぐ信じて、主の弟子になりましたか。主イエスの12弟子さえも、すぐイエス様について行っても、本当の信仰は、彼らのうちにだんだん生まれて来て、少しずつ成長していきました。 その12弟子は、3年間主イエスとともにいて、聖書の解き明かしを聞いて、主の驚くべきふるまいから学びました。実は、「弟子」という人は、そのような者です。弟子は、だれかのもとで習う者です。 主の12弟子にとっては、いつイエス様を初めて信じたかが、分かりにくいです。イスカリオテのユダという一人の弟子は、終わりまでイエス様を本格的に信じたわけではなかったのです。彼を「偽の弟子」と呼べるでしょう。しかし、主イエスの大宣教命令の目的は、人々を本当の弟子とすることです。もちろん、本当の弟子は、主イエスを心より信じて、主の教えと戒めに従って、主のような者になりたいはずです。弟子であれば、主人なるイエス様との親しい人間関係を楽しむはずです。最初の12弟子のように、現在の弟子も、主イエスとともに日々の生活の中で歩み、主イエスとの会話のような祈りを大切にするでしょう。聖書を読むたびに、退屈な勉強として思わずに、主イエスの御声を聞くために熱心に耳を傾けるでしょう。そして、本当の弟子は、主を愛する者であり、その愛のゆえに主の戒めを守るはずです。ヨハネの福音書14:21で主はこう言われました。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」主の弟子として学び、成長するために、まず主イエスを愛しなければなりません。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」また、「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」と主はJn. 14:23、24で言われたのです。さらに、主イエスだけでなく、主の他の弟子たちも愛するはずです。ヨハネの福音書13:35で主はこう言われまた。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」この主のみことばから、主と弟子たちの間の関係は、どんなに密接であるかが分かるでしょう。あらゆる国の人々はすぐ、簡単に、このような弟子になるはずではありません。でも、教会の交わりの中に迎えられた人は、キリストの愛に囲まれて、純粋なみことばの乳によって、だんだん成長し、しっかりした信仰と愛をもって、りっぱな弟子になるはずです。それは、教会の大切な目票の一つです。

E.  どのように。さて、第五に、どのようにして、教会が普通の人々をこんなに立派な弟子とすることが出来るのでしょうか。今日の箇所の19-20節を原語のギリシャ語で読めば、主イエスが適切な方法を教えてくださることが明らかになります。この文章においては、主要な動詞は「弟子とする」という表現に訳されています。この動詞だけ命令法です。しかし、この主な動詞に従属する動詞の分子は三つあります。その三つの分子はみな、どのように「あらゆる国の人々を弟子と」しなければならないかを説明します。つまり、「行って」、「バプテスマを授け」、と「教えなさい」に訳された三つの動詞は、ギリシャ語の分子で、どのように他の人々を弟子としなければならないかを説明します。まず、あらゆる国の人々のいるところに行かなければなりません。それから、その人々を父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けるべきです。もちろん、聖書の教えによると、人は自分の罪を悔い改めて、主イエス・キリストを救い主として告白したうえでバプテスマを受けることが出来るそうです。だから、バプテスマを授ける前に、受洗する人に福音の意味と大切さを十分教えなければならないでしょう。それから、バプテスマによって新しい弟子を、キリストを信じる信者同士として教会に受け入れるべきです。しかし、弟子の学びや成長は、受洗した時で終わるわけではありません。キリストの弟子たちは生きている限り、聖書を読んだり、学んだりすることにより、成長し続けるはずです。こういうわけで、主イエスは、加えて言われました。「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」人々を弟子とすることは、すぐ済ませる仕事ではありません。ですから、主イエスによると、教会の会員はみんな、弟子たちとして教えてもらって、成長していくべき者だそうです。使徒パウロがテモテへの手紙第二3:16で言ったように、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」教会の兄弟姉妹はみな、成長に進歩している弟子として、みことばによる霊的な糧を受けて、養われる必要があります。    

III. CONCLUSION

終わりに、主イエスの最後の戒めを心に貯えて、守るように励みましょう。主イエス・キリストの良い知らせを出来る限り広めようとしましょう。今月27日に私たちの教会は特別伝道集会を行なう予定をご存知でしょう。この宣教の機会のために切に祈りましょう。その礼拝と講義のメッセージを聞きに多くの人たちを誘ってください。しかし、主の大宣教命令の意味と目的を忘れないでください。私たちの宣教の務めは、人々を弟子とすることです。教会のみんなに与えられた務めを果たすように、主イエスの権威と恵みに頼りながら、未信者のいるところに行って、福音を伝え、バプテスマを授けることによって弟子になる人々を教会に迎えなければなりません。そして、一生の間教会の中で育った信者であっても、喜んで聖書の教えを受けたり、上げたり、互いに励まし合ったりして、弟子たちとして成長して行きましょう。弟子であれば、成長することはこの世に生きている限り、続くからです。弟子たちとして受けた恵みと真実を、次の世代の弟子たちにも渡して行きましょう。

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