キリストにある私たちの確信

KASUMIGAOKA

2017/05/07 SERMON: 「キリストにある私たちの確信」 “Our Confidence in Christ”

TEXT: 1 Jn. 5:12-21

I. INTRODUCTION

ヨハネは福音書の記者のうちで、主の晩餐の制定を記録していない唯一の記者です。しかしヨハネは、カペナウムのユダヤ人たちに対してイエス様がおっしゃった、このような言葉を記録しています。「まことに、 まことに、 あなたがたに告げます。 信じる者は永遠のいのちを持ちます。 わたしはいのちのパンです。 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、 死にました。 しかし、 これは天から下って来たパンで、 それを食べると死ぬことがないのです。 わたしは、 天から下って来た生けるパンです。 だれでもこのパンを食べるなら、 永遠に生きます。 またわたしが与えようとするパンは、 世のいのちのための、 わたしの肉です。…わたしの肉を食べ、 わたしの血を飲む者は、 永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:47-51; 54)」この言葉の意味は、主の晩餐と同じです。イエス様はご自身の体、つまりご自身の肉と血を捧げ、他の者(たのもの)が永遠に生きるようにされました。この永遠のいのちは、イエス様を信じることにより与えられるものです。私たちが主の晩餐にあずかる時、私たちはこのイエス様の約束を思い起こすのです。そして私たちはパンを食べ、盃(さかずき)から飲む時、私たちがイエス様のいのちの賜物に、今まさにあずかっていることが示されるのです。

このことを考えてみて下さい。永遠のいのちという賜物です。これが、クリスチャンたちがキリストにあって与えられているものです。このことをヨハネは手紙の5:11でこう言っています。「神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、 そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。」ヨハネは、私たちが単にこの賜物を遠い将来に与えられるわけではないということを強調しています。つまり私たちが「天国に召される時」、もしくは終わりの裁きの日にこの永遠のいのちが初めて与えられるわけではないということです。永遠のいのちとは、全ての信じるものがキリストに会ってすでに持っているものです。それでは、この「永遠のいのち」という賜物は、どのようなものなのでしょうか。それは、私たちの物理的な肉体が、若く健康なままで永遠に死ななくなるという保証ではありません。イエス様は次のことを、友人であるマルタに対してその兄弟ラザロが死んだ時に言われました。「わたしは、 よみがえりです。 いのちです。 わたしを信じる者は、 死んでも生きるのです。 また、 生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。」キリストにあって、信じるものは「霊的ないのち」を持ちます。それは肉体が死ぬときも、決して終わることのないいのちです。ヨハネの福音書5:24でヨハネはこう言います。「まことに、 まことに、 あなたがたに告げます。 わたしのことばを聞いて、 わたしを遣わした方を信じる者は、 永遠のいのちを持ち、 さばきに会うことがなく、 死からいのちに移っているのです。」そして再び10:10-11でイエス様はこうおっしゃいます。「わたしが来たのは、 羊がいのちを得(え)、 またそれを豊かに持つためです。わたしは、 良い牧者です。 良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」そして10:27-28ではこう言われます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。 またわたしは彼らを知っています。 そして彼らはわたしについて来ます。 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。 彼らは決して滅びることがなく、 また、 だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」これらは全て素晴らしい約束ですが、どのような意味なのでしょうか。

キリストにあるわたしたちの永遠のいのちの中心的な要素のひとつは、私たちと神様との交わりがもはや決して損なわれないという保証です。パウロがローマの教会に書いたとおりです。死さえも「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、 私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:39)キリストにある私たちのいのちは、確信に満ちたものです。なぜなら、私たちと神様との交わりは終わることがないからです。この確信こそが、ヨハネが最初の手紙の結びに強調していることなのです。先週、私たちはこの手紙の最後の、この警告に注目しました。「子どもたちよ。 偶像を警戒しなさい。」偶像にあって私たちにいのちはありません。偶像に希望はないのです。しかし、キリストにあって、そこには永遠のいのちと永遠の希望があります。今日は、キリストに信頼するものに対して与えられる保証について考えてみたいと思います。

II. CHRISTIAN ASSURANCE: LIVING CONFIDENTLY WITH CHRIST FOR ETERNITY

[クリスチャンの保証:キリストともに確信をもって永遠のいのちを生きる]

13節でヨハネはこの手紙の目的について語ります。「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、 あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、 あなたがたによくわからせるためです。」そしてヨハネはクリスチャンが確信を持つべき3つの具体的なことについて言及しています。

まず第一に、神があなたの祈りを確実に聞き、それに答えてくださるという保証です。祈りは「私たちが欲しいものを手に入れるように望む」ものではありません。クリスチャンの祈りは、神社での祈祷や教会での祈祷のように決まった時間や場所に行う宗教的な行為でもありません。私たちが祈る時、私たちは、全てのことばを聞いてくださっているまことの神に語りかけているのです。14節でヨハネはこう言います。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、 神はその願いを聞いてくださる」私たちは神が本当に聞いてくださることを知っているのです。私たちは神様が私たちを気にかけ、愛してくださることをしっているのです。だからこそ、私たちは悩みや必要について自由に神に祈ることができるのです。そして私たちは、神様が私たちより偉大で、賢く、良いお方であることを知っています。だからこそ、私たちは神様に、完全なみこころによって私たちに答えてくださるように祈るのです。イエスっ様は弟子たちに、天の父にこう祈りなさいとおっしゃいました。「みこころが天でなるように、地にもなさせたまえ。」これがクリスチャンとしての私たちの希望です。私たちの人生において神様がご自身の完全なみこころを行なってくださるという保証があります。それによって私たちはすべてにおいて神の栄光をあらわすのです。私たちはこのように祈る時、神が聞いてくださり、私たちが求めるものを与えてくださることを知るのです。もちろん、私たちは神様がなにか「物」を与えてくださるように祈るだけではありません。私たちは確信を持って、霊的なことがらを祈ります。つまずいたときに赦しを祈り、知恵や導き、霊的な成長、誘惑に打ち勝つ力を祈り、神の栄光を表すように祈るのです。
私たちが確信を持つべき2つめのことは、神様が確実に人々を変えることができる、そして変えてくださるということです。5:16-17でヨハネは、良くない行ない、すなわち罪を犯している兄弟に、神がいのちを与えてくださるように祈ることができると言います。しかし私たちは自分たち自身では他の人を変えることはできません。エレミヤ書13:23で神様はイスラエルにこうおっしゃいました。「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう。」私たちは自分たちの心や習慣を変えることはできません。それでは、なおさら、他者の心を変えることができるでしょうか。できるわけがないのです。しかし神様にはそれがおできになります。神様は人の心をかたくなにされます。しかし同時に、神は人に「新しい心」、そして新しいいのちを与えることもおできになります。神様があなたに新しい心をお与えになった時、あなたの人生は完全に変えられるのです。パウロはコリントの教会のクリスチャンたちにこう言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、 その人は新しく造られた者です。 古いものは過ぎ去って、 見よ、 すべてが新しくなりました。」 しかしクリスチャンは誰ひとりとして完全ではありません。みな罪につまずくのです。もし仲間のクリスチャンが罪を犯しているのを見た時、私たちはどうするべきでしょうか。マタイ18:15でイエス様はこうおっしゃいます。「また、 もし、 あなたの兄弟が罪を犯したなら、 行って、 ふたりだけのところで責めなさい。 もし聞き入れたら、 あなたは兄弟を得たのです。」罪を犯した兄弟姉妹に対して言葉をかけ、悔い改めるように促すことは必要不可欠です。しかしそれだけでは充分ではありません。そこには人間の魂の戦い、悪魔に対する戦いがあります。この戦いには、議論や理屈だけで勝つことはできません。霊的な戦いは神の御霊の助けによって戦われなければならないのです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、 …もろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)」私たちは互いのために祈る時、神は聞いてくださり、彼らに回復を与えてくださるのです。クリスチャンにとって、罪に堕ちた時に神様が回復させてくださるように、互いのために祈ることは重要です。しかし、人が罪を犯し、神がそれをお許しにならないという場合もあります。イエス様はこうおっしゃいました。「聖霊に逆らうことを言う者は、 だれであっても、 この世であろうと次に来る世であろうと、 赦されません。」(マタイ12:32)ヘブル人への手紙6:6では、背教の罪が断罪されています。なぜなら、「堕落してしまうならば、 そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。 彼らは、 自分で神の子をもう一度十字架にかけて、 恥辱を与える人たちだからです。」ヨハネはこのようなことを16節で「死に至る罪」と呼んでいるのだと思います。ほとんどの神学者は、ヨハネはここで、教会から去った者たちのことを言及していると考えます。彼らが、イエスが神の御子であるということを否定したからです。まことの神を否定することは、重大な誤りです。5:10でヨハネは、神が御子についてあかしされたことを信じない者は神を偽り者とする、と言います。彼らはキリストを信じる信仰を通してのいのちの約束から背を向けたのです。ヨハネは、このような人たちのために祈ることを求めません。にもかかわらず、神はどんな人の心をも変えることがおできになる方です。私たちに度々示されているとおりです。神はクリスチャンへの暴力的な迫害者の心をも変えてくださいました。タルソのサウロという人物です。まことの神は人を代え、新しいいのちをお与えになることができる方です。私たちはこの神を知り、この神に仕えるからこそ、希望があるのです。

クリスチャンが確信を持つべき3つめの点は、神様の霊的な保護です。神様が確実に私たちを悪い者の力から守ってくださり、悪い者は私たちに触れることができない(18節)とヨハネは言います。確かに、この世においては私たちの周りで働く「霊的な力」があります。目で見ることはできませんが、たしかにあるのです。イエス様は地上での働きの中で、人々を様々なかたちで支配した、悪霊や汚れた霊に出会われました。ヨハネ17:15でイエス様は、弟子たちのために、天の父が悪い者から守ってくださるように祈られました。ヨハネはこの手紙の5:19でこう言います。「世全体は悪い者の支配下にある。」しかし神はご自身の民を、その悪い者の影響力から守ってくださるのです。神によって生まれたものは、罪に生きることをせず、神が「守っていてくださるので、 悪い者は彼に触れることができないのです。」(18節)悪い者、悪霊の力は、生ける神ではなく偶像に仕えさせようと欺き誘惑する力です。しかし神はご自身の民をそのような誘惑から守ることがおできになるのです。悪い者の力から自由になるための鍵は20節にあります。「しかし、 神の御子が来て、 真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。 それで私たちは、 真実な方のうちに、 すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。 この方こそ、 まことの神、 永遠のいのちです。」まことの神を知ることで、御子イエス・キリストが神の子どもたちを悪い者の霊的な力から守ってくださるのです。

私たちはキリストにあって永遠のいのちを持っています。なぜなら、私たちがキリストに属しているという完全な保証をキリストが私たちに与えてくださるからです。何者も、サタンでさえも、私たちを主なるイエス・キリストの愛の御手から引き裂くことはできないのです。イエス様は私たちをしっかりと握ってくださり、「何者も私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、 私たちを引き離すことはできません。」

III. CONCLUSION 結論

これが私たちが神の御子なるキリストにあって与えられる確信です。(1)神の耳は常に私たちの声を聞いてくださる。神様は私たちの声を聞いてくださり、御父が愛する子どもたちに与えられる最善のものを与えてくださるのです。(2)神様は私たちの心を変えてくださり、罪を犯した時に回復して下さいます、そして神様は教会の交わりと祈りを用いてこれを成し遂げてくださるのです。(3)私たちが罪につまずいたとしても、私たちはキリストが決して私たちを見捨てないということを知っています。私たちは、悪い者の力から私たちを救い出すために命を捧げてくださったキリストに属するものです。私たちが再び悪魔のものになることをイエス様はお許しになりません。私たちはキリストの民であり、キリストの牧場の羊です。そして私たちはこう歌うのです。「たとい、 死の陰の谷を歩くことがあっても、 私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」イエス様は私たちにご自身のいのち、つまり永遠のいのちを与えて下さいました。だからこそ、私たちはキリストのものとなったのです。主の晩餐にあずかる時、まさにそのことを今日私たちは祝うのです。

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