見捨てられた

KASUMIGAOKA
2018/03/25
SERMON:   “Forsaken”   「見捨てられた」  
TEXT: Mark 15:16-39

I. INTRODUCTION イントロダクション

私たちの歴史の記録によれば、イエス・キリストはユダヤ教の安息日の前の日に十字架につけられました。キリストの体は金曜日の午後にすぐに墓に置かれ、金曜日から日曜日の早朝までその墓の中にとどまったのです。そして、イエス様は死人のうちからよみがえられました。日曜日にイエス様がよみがえられ、弟子たちの前にお現れになったので、イエス様の弟子たちは日曜日に集まって礼拝を始めたのです。イエス様がよみがえられた日が週の初めだったので、日曜日はキリスト教の礼拝のための正式な日となりました。私たちは日曜日に神様を礼拝するたびに、イエス様の復活を祝うのです!イエス様の使徒たちが死んだ後、多くのキリスト教会が、毎週日曜日だけでなく、毎年特定の日にキリストの復活を祝うようになりました。この日は復活祭(またはイースター)と呼ばれました。当初は、この新しい祝日について、一致した意見はありませんでしたが、325 A.D.のニカイア公会議において、このイースターの日が定められました。宗教改革後、ほとんどの改革派教会はイースターを含むローマカトリック教会の「祝日」を拒否しました。しかし、今日、多くの教会は、「イースターの日曜日」にはキリストの復活を説教するという慣習に従います。私は来週もイエス様の復活に焦点を当てて説教する予定ですが、それは神様が私たちにイースターを守るように命じておられるからではありません。むしろ、私がイエス様の復活を説教する理由は、まず、復活を説教しないことで落胆する人がないように、そして、イエス様の復活は私たちクリスチャンの信仰において、常に基礎でなければならないからです。エジプトで奴隷だった民をどのように神様が贖い出してくださったのかを記念して、ユダヤ人はいつも過越(すぎこし)の祭(まつり)を祝ってきました。しかし今や、すべての人のための神様の究極(きゅうきょく)の救いの御業として、すべての世界に宣べ伝えられなければならないのは、イエス・キリストの十字架と復活です。私たちに新しいいのちを与えるのは、イエス様の復活なのです。イエス様が私たちを、罪の束縛(そくばく)から救い出してくださったからです。来週私たちは、キリストの死からの復活のうちに見られる勝利について考える予定です。しかし、今日は、イエス様が十字架で私たちの罪の代価として死んでくださった時に、イエス様が何に耐え忍ばれたのかを考えたいと思います。私たちを自由にするために、イエス様が進んで支払ってくださった代価とはなんでしょうか?

II. THE COST OF OUR REDEMPTION 私たちの贖いの代価

私たちの贖いの代価は、キリストが十字架上で苦しまれた刑罰でした。イエス様が私たちの身代わりとして耐え忍ばれた痛(いた)ましい刑罰について考えるとき、多くの人々は自然に、まずイエス様が感じた肉体的な痛みを考えます。もちろんその肉体的な痛みを過小評価(かしょうひょうか)してはいけません。イエス様が十字架に掛けられた6時間の間、イエス様は言葉に出来ないほどの苦しみに耐えられました。そしてそれは、体が傷つけられ、激(はげ)しく出血(しゅっけつ)するまで、残酷(ざんこく)に鞭打(むちう)たれた後のことでした。多くの犯罪者(はんざいしゃ)は、39回の鞭打ちのショックと出血だけで死んだそうです。無慈悲(むじひ)なローマの兵士たちは、棘(とげ)の冠(かんむり)を作ってイエス様の頭の上に置き、そして葦(あし)で頭を打つことによって棘を肉に押し込んだのです。イエス様が耐え忍ばれた苦痛(くつう)は、鉄(てつ)の釘(くぎ)で手足(てあし)を十字架に打ち付けられる前から、すでに極めて大きな物でした。それから、十字架上のイエスの身体(からだ)が垂直(すいちょく)に持ち上げられ、イエス様のいのちである血潮(ちしお)が体から流れ出すなか、イエス様は数時間もの間、太陽の熱(ねつ)を感じられました。イエス様がお受けになった肉体的な苦痛は、私たちが想像(そうぞう)する以上にひどいものでした。しかし、肉体的な痛みはイエス様の苦しみの中で最もひどいものではありませんでした。

イエス様の最後の日の記述(きじゅつ)を注意深く読むと、イエス様が苦しまれた感情的(かんじょうてき)な痛みは、肉体的な痛みよりも、さらにひどいものでした。あなたの友人が突然あなたを捨てた場合、皆さんはどう感じるでしょうか。あなたの親友(しんゆう)が自分を敵に売り渡したとしたら、どう感じるでしょうか。あなたが不当(ふとう)に、邪悪(じゃあく)な犯罪(はんざい)で告発(こくはつ)され、非難(ひなん)された場合、どう感じるでしょうか?全世界があなたを拒絶(きょぜつ)し、あざ笑い、無価値なものとして侮辱(ぶじょく)したら、どう感じるでしょうか?それがイエス様に起こったことなのです。

イエス様の最も近い弟子のひとり、イスカリオテのユダは、イエス様を裏切り、イエス様を逮捕(たいほ)させ、公に屈辱(くつじょく)を受けるようにしました。イエス様の弟子たちはすべて、イエス様を離れて逃げました(マルコ14:50)。イエス様は偽りの証人によって告発され、ご自身の出身(しゅっしん)であるユダヤ人の宗教裁判所(しゅうきょうさいばんしょ)によって有罪とされました。そして、イエス様はローマの総督(そうとく)に裁かれるために引き渡されました。ポンテオ・ピラトはイエス様が無罪であることをわかっていながら、「群衆のきげんをとる」ために、イエス様を鞭打(むちう)たせ、十字架につけさせたのです(マルコ15:15)。実際、イエス様を最も罰(ばっ)したかったのは、その群衆だったのです!イエス様の出身でもあるユダヤ人の群衆が、イエス様を拒絶し、そのかわりにバラバと呼ばれるテロリストが解放(かいほう)されるように願ったのです。ユダヤ人たちは、多くの人々に良いことを行なってきたイエス様よりも、殺人者(さつじんしゃ)を受け入れるほうを選んだのです。群衆はしつこく、ピラトに対して、犯したことのない犯罪のためにイエス様を処刑(しょけい)するように求めました。彼らは繰り返し「十字架につけろ!」と叫びました。ローマの兵士たちは、イエス様を苦しめ、偽(にせ)の帝王(ていおう)のような衣服(いふく)を着せ、棘の冠をかぶせました。そしてイエス様を叩(たた)き、唾(つば)を吐(は)いた後(あと)、その苦しみをあざけりながら、ひざまずいて拝みました。そして、彼らはメシアなるイエス様を十字架につけるために連れ出したのです。ローマの兵士たちは、イエス様の衣服(いふく)を剥(は)ぎ取(と)り、手と足を十字架に釘付(くぎづ)けにしました。そしてイエス様の頭の上には、「ユダヤ人の王」という罪状書(ざいじょうが)きが掲(かか)げられたのです。 それでも、イエスを取り囲んでいた人々は、イエス様を感情的に虐待(ぎゃくたい)することを辞(や)めませんでした。兵士たちは、イエス様の血で濡(ぬ)れた服(ふく)を、家族に返すのではなく、自分のために分けました。彼らは明らかに、その血(ち)まみれの衣服が、人間としてのイエス様ご自身よりも貴重(きちょう)であると考えたのです。イエス様の両側には、それぞれ自分の犯した犯罪(はんざい)のために処刑(しょけい)された強盗(ごうとう)の体を支(ささ)えている、別の十字架がありました。イエス様の体は、午前9時から正午(しょうご)まで、このように十字架にかけられたのです。犯罪者をこのように十字架につけた理由の1つは、それを公共(こうきょう)の見せ物や見せしめにするためでした。処刑(しょけい)の方法としての十字架刑は、ローマで一般的に用いられたものでしたが、処刑された犯罪者の死体(したい)を木にかけるという習慣は、旧約聖書に記録されています。申命記21:23ではこのような説明が加えられています。「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」(ガラテヤ3:13参照)。このような形(かたち)で死体を吊(つ)るされるのは、処刑された本人だけでなく、その家族や友人にとっても大きな恥だったのです。イエス様の場合、3つの十字架の前を通る人々は、その処刑されている3人に対して恐怖感(きょうふかん)や嫌悪感(けんおかん)をもち、このように悲惨(ひさん)な形(かたち)で死を迎えているその3人に対して、自分の意見でののしったのです。「道を行く人々は、頭(あたま)を振(ふ)りながらイエスをののしって言った。『おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」(29-30節)。ユダヤ人の祭司長と律法学者たちもイエス様をあざけり、こう言いました。「他人は救ったが、自分は救えない」(31節)。明らかにイエス様が敗北(はいぼく)し、とても無力なように見えたので、その弱さを彼らはののしったのです。しかしもちろん、イエス様はまったく弱くはありませんでした。イエス様は無力でも敗北してもいませんでした。実際には、十字架はイエス様の最大の勝利(しょうり)の瞬間(しゅんかん)でした。なぜなら、イエス様は自分のご意志によって十字架に留まられ、ご自身がこの世界に来られた目的を放棄(ほうき)させようとする、あらゆる誘惑(ゆうわく)に打ち勝(か)たれたからです。イエス様は十字架に掛(か)かることで、人から見捨てられましたが、それでもご自身で十字架から降り、自分のいのちを救うことを拒否されたのです。イエス様は、「他人のいのちを救うために、ご自分のいのちをお与えになる」という目的のために、この瞬間(しゅんかん)まで来られたのです。にもかかわらず、激しい侮辱(ぶじょく)とあざけりは、耐えるのに容易(ようい)なものではありませんでした。しかし、この人間からのあざけりと拒絶(きょぜつ)は、イエス様にとって最も苦しい試練(しれん)ではなかったのです。イエス様が十字架にお掛りになったときに耐えられた、最も苦しい試練は、33-34節に示されています。

正午(しょうご)までに、イエス様は十字架に3時間も掛(か)かられ、ひどい苦痛(くつう)と通行人(つうこうにん)から侮辱(ぶじょく)に耐えられました。突然、奇妙(きみょう)なことが起こったのです。「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた」(33節)。正午にこのような暗やみが起こる、明白(めいはく)な理由はありませんでした。それは突然の雲(くも)でも、日食(にっしょく)でもありませんでした。マルコは、太陽が3時間暗いままだったと言っています。 ルカの福音書23:45では、単に「太陽は光(ひかり)を失(うしな)っていた」と言っています。暗闇(くらやみ)は、聖書の中でしるしや象徴(しょうちょう)として用いられることがあります。それは、何か恐ろしいことの前兆(ぜんちょう)です。イザヤはずっと昔に、主の裁きの日に、太陽や月、星などの天の光が暗くなると預言しました。イエス様ご自身も、イザヤの御言葉を引用して、マルコ13:24でこうおっしゃっています。「だが、その日には、その苦難(くなん)に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放(はな)たず、」。神様のみが太陽や月、星の光を支配することができ、この暗闇は神の裁きのしるしだったのです。しかしここでは、誰に対して神の裁きが下っているのでしょうか。何人かの注解者(ちゅうかいしゃ)は、この超自然的(ちょうしぜんてき)な暗闇の目的は、神様の刑罰(けいばつ)がイエス・キリストご自身に下ったということを示すためであるとしています。この解釈はおそらく正しいと思います。しかし、なぜでしょうか?イエス様を十字架へと導いた理由を私たちは覚える必要があります。イエス様が人間の身代わりになってくださったので、神の裁きがイエス様に下ったのです。私たちの代理人(だいりにん)として、イエス様は私たちの罪をその身に背負ってくださったのです。イエス様はイザヤ53:3-6の預言を成就(じょうじゅ)されました。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病(やまい)を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊(たっと)ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛(いた)みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺(さ)し通(とお)され、私たちの咎(とが)のために砕(くだ)かれた。彼への懲(こ)らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」イエス様は私たちの罪を負うために、苦しまれ、十字架に釘付(くぎづ)けにされ、死なれたのです。太陽は神の私たちへの怒りのしるしとして暗くなっていました。しかし、イエス様は私たちの罪を負ってくださったので、私たちの罪に対する神の燃える怒りにも耐え忍ばれる必要があったのです。

3時間の間、午後3時まで太陽は暗くなっていたが、それはちょうど神殿で子羊が普段(ふだん)の夕べのいけにえのために屠(ほふ)られる時間でした。マルコはこう書いています。「イエスは大声で、[アラム語で]『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばれた」(34節)。これは、イエス様の苦しみが最も激しかった瞬間でした。イエス様が、愛する天の御父とその支える恵みから切り離された瞬間でした。皆さんが神様の愛の良さを味わい、皆さんの人生の中で神様の祝福を経験していない限り、この瞬間のイエス様の悲しみの深さを理解することはできません。神の御子は、世界が創造される前から、御父の愛をご存知でした。御子はその愛のほんのわずかな中断(ちゅうだん)をも、経験されたことはなかったのです。イエス様がこの世界に来られた時、御父はイエス様への愛をこう言って繰り返し確認されました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。(マルコ1:11; 9:7)」しかし今、イエス様が十字架にお掛かりになり、ご自身の肉体に私たちの罪を負ってくださったときに、神の怒りがイエス様に注がれ、父なる神がイエス様に背(せ)を向けられたのです。イエス様はすでに人によって見捨てられていましたが、今度は天の御父によって見捨てられたのです。イエス様は、罪人を待ち受けるひどい刑罰について、マタイ8:12でこうおっしゃっています。彼らは「外の暗やみに放(ほう)り出され、そこで泣(な)いて歯(は)ぎしりするのです。」(cf. マタイ22:13、25:30)神の光、憐(あわ)れみ、そして愛から捨てられるのは恐ろしいことです!そしてそれを、イエス様自身が、十字架上で私たちの罪を背負って死なれた時に経験されたことです。

37節は、「それから、イエスは大声をあげて息(いき)を引き取られた。」と述べています。そしてマルコは、イエス様が死なれたときに、2つの驚くべきことが起きたと伝えています。一つ目は、「神殿の幕(まく)が上から下まで真(ま)っ二(ぷた)つに裂けた」(38節)ということでした。至聖所(しせいじょ)を外側の聖所から隔(へだ)てていた神殿の幕(まく)は、ほとんどの祭司たちでさえ神様の聖なる臨在に入ることが許されていなかった、一種の「仕切り」でした。イザヤ59:2は、この内側の幕が表していたことを、このように説明しています。「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」しかしいまや、イエス様が神の民の罪を取り除かれました。聖なる神とその民との間には、もはや「仕切り」はないのです。だからこそ、神殿の幕は、人の手ではなく、神様御自身の決定的な行為によって、上から下まで引き裂かれたのです。

そしてマルコは、イエス様が死なれたときに起きた、もう一つの驚くべきことを私たちに伝えています。十字架刑(けい)の現場(げんば)を警備(けいび)していたローマの百人隊長は、「イエスがこのように息を引き取られたのを見て、」すぐにイエス様が普通の人ではなかったことを理解しました。彼は「この方はまことに神の子であった」と言ったのです。このかたくななローマの兵士さえも、イエス様がご自身の死に直面されたとき、イエス様の力と尊厳(そんげん)に深く感銘(かんめい)を受けたのです。彼の配下(はいか)の兵士たちがあざけったイエス様は、百人隊長の深い尊敬(そんけい)を得たのです!彼はイエス様の主張について真剣(しんけん)に考えるようになった、多くの異邦人のうちの最初の一人でした。初代教会の伝承(でんしょう)によると、この百人隊長はクリスチャンとなり、キリストの教会の忠実なメンバーの一人になったと言われていますが、このことは当然ありうることでしょう。    

III. CONCLUSION   結論

今日の私たちの学びを終えるにあたり、イエス様が私たちを罪から贖うために支払ってくださった、恐るべき代価を心に留めましょう。十字架がなければ、私たちはまだ「自分の罪過(ざいか)と罪との中に死んでいた者」でしょう。私たちは依然(いぜん)として神の怒りに直面し、自分の罪に対する正当(せいとう)な刑罰を避けることは絶対に望めません。しかし、イエス様は来られ、私たちを自由にするための代価を支払ってくださいました。この言い表せないほどの賜物を、神様に感謝しましょう!

そして、イエス様が私たちのために拒絶(きょぜつ)に勇敢(ゆうかん)に直面されたことを覚えましょう。イエス様は人によって見捨てられましたが、さらに痛(いた)ましいことに、愛する天の御父によっても見捨てられました。このことをイエス様がどうお感じになったか、想像できるでしょうか。もし皆さんが、周りの人々の尊敬を失うことを恐れるがゆえに、キリスト教の務めをおろそかにするよう誘惑(ゆうわく)されるときがあれば、イエス様を覚えましょう!イエス様は「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」(ピリピ2:7)。そして、「自分を卑(いや)しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリピ2:8)。私たちも、主イエスに従って神様に仕えるために、自分のプライドを捨てなければなりません。イエス様の忠実さのゆえに、イエス様は私たちの贖い主としての使命を、十字架上で完成(かんせい)させてくださいました。使徒ペテロがその第一の手紙2:24で言っているとおりです。イエス様が「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです」。イエス様は詩篇22篇の御言葉を口にしながら死なれました。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」しかし、主なる神は御子を墓に捨て置かれたのではなく、三日目に御子を甦(よみがえ)らせたのです!キリストの十字架のゆえ、「神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(Phil.2:9-11)

神様が私たち一人ひとりに何をお求めになるのか分かりませんが、イエス様が私たちのために耐え忍ばれた試練ほどは難(むずか)しくないことは明らかです。だからこそ、皆さんは信仰にしっかり立ってください!神様に忠実であることのために、皆さんの友人や家族を失うのを恐れないでください。そしてヤコブ1:12の約束を、心の中に蓄(たくわ)えてください。「試練に耐える人は幸いです。耐(た)え抜(ぬ)いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

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