KASUMIGAOKA
2018/03/11
SERMON: “Christ’s Indispensable Ministry” 「キリストの不可欠な務め」
TEXT: Heb. 8:1-13
I. INTRODUCTION イントロダクション
なぜ今日私たちはここに集まっているのでしょうか?皆さんはこの質問に対する正しい答えを知っているはずです。私たちは神を礼拝するために、ここに集っているのです。これは簡単な問いです。しかし、礼拝について、それほど簡単ではない別の質問があります。例えば、私たちはなぜ神を礼拝するのでしょうか?そして私たちは神をどのように礼拝するべきでしょうか?そして、誰が神を礼拝する権利を持っているのでしょうか?これらのことを、今日のヘブル書の箇所は説明しています。ヘブル書は、私たちに代わって行なってくださったイエス様の務めの本当の性質を示すことによって、このような問いに答える準備をしています。私たちの礼拝に欠(か)かせないイエス様の務めの2つの側面(そくめん)があります。それは、まず第一に、神の御座の前で私たちのためにキリストがとりなしてくださることと、第二に、人と神との間の新しい契約の仲介者としてのキリストの働きです。キリストのとりなしと仲介というこの2つの種類の務めがなければ、私たちのうちの誰も、神を知ることができず、神を礼拝することもできません。そこで今日、イエス・キリストが私たちに代わって行なってくださる、この2つの不可欠な働きについて、ヘブル書が8章で教えていることを見ていきましょう。この内容は、さらに次の9章10章でより深く議論されていきます。
II. CHRIST’S INTERCESSION AND MEDIATION FOR US キリストのとりなしと仲介
A. Our Intercessor
1-5節では、ヘブル書の著者は、イエス様が私たちのために行なってくださる、祭司の務めに注目しています。これはヘブル書が2章17節でイエス様のことを「神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司」と最初に紹介して以来、数週間にわたって考えてきたテーマです。ヘブル書は、大祭司になるためには、「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」父なる神はご自身の御子に対して個人的に、祭司として召され、詩篇110:4にあるようにメシヤに対して「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位(くらい)に等(ひと)しい祭司である。」とおっしゃっています。そしてヘブル書4:14、16節ではこう言われています。「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。・・・ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」イエス・キリストは私たちを神の臨在(りんざい)の前に導くために、私たちの大祭司となってくださいました。キリストのとりなしに頼りながら、「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づ」いて参ります。今日私たちは、そのためにここに集っているのです。私たちは神の臨在の御前に自信をもって近づくことができ、生活の中で私たちの助けとなる、神のあわれみと恵みを受けることを望むことができるのです。なぜならイエス様が私たちの代わりに祭司の務めを果たしてくださるからです。イエス様は私たちのために御父との間を「とりなして」くださいます。これが、ヘブル書8章の最初の5節が要約しているイエス様の務めなのです。1節はこう始まります。「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座(ちゃくざ)された方であり、人間が設(もう)けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」
確かに、私たちが神のもとに来て神を礼拝したいと思う理由の1つは、日々の生活の中で神様の助けが必要だからです。私たちは神様が与えてくださる慰めや励まし、勇気や力が必要です。体を支える物質的なものがすべて必要です。だからこそ、私たちは健康や安全、実(みの)りある仕事とともに、あらゆる物質的なものを与えてくださるよう、神様に頼むのです。しかし、これだけが私たちが神様を礼拝する唯一の理由ではありません。イエス様は、私たちが神様を礼拝する必要があることの、さらに重要な理由を教えています。イエス様はヨハネ4章で、一人のサマリヤ人の女性に対してこの理由を説明します。ヨハネ4:23を見てください。イエス様はこうおっしゃいます。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」この箇所の最後の部分をしっかりと理解したいと思います。「父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」主の御名によって神様を礼拝するためにみもとに来る最も重要な理由は、神様ご自身が、正しくご自身を礼拝する者たちをお求めになっているためです。神様は私たちがご自身を礼拝することを望んでおられるのです。私たちがこれを理解していないと、「私は今日、神様の助けが別に必要ではないと思うので、今週は神様を礼拝する必要はない」と考えるかもしれません。これは、人間中心的で、自分勝手ですらある、礼拝の考え方です。神様が私たちの礼拝を求めておられるので、私たちは神様を礼拝しなければならないのです。実際、神様は私たちの礼拝を要求(ようきゅう)しておられるのです。
イエスのとりなしの務めを通して、私たちが神様を礼拝するもう一つの理由があります。その理由は、私たちがイエス様の御名によって神様を礼拝する時、ここで単純な活動や儀式を行なっているだけではないということです。私たちが神様を礼拝するために神様の御前に来るとき、神の御子なるイエス様は、天におられる父なる神の御座の御前で、私たちの個人的な「代理人(だいりにん)」として働いてくださるのです。ヘブル書が書かれたとき、エルサレムの神殿はまだ立っていて、祭司たちはまだいけにえを捧げていました。実際には、4節によると、「もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。」しかし、イエス様は、レビ族の祭司たちが行なったような、単なる象徴的(しょうちょうてき)な働きをしただけではありません。レビ族の祭司たちの働きは、一時的で暫定(ざんてい)的なものでした。ユダヤ人の祭司たちが仕えたエルサレムの神殿は、「天にあるものの写(うつ)しと影(かげ)」(5節)でした。ソロモンによって建てられ、金で覆(おお)われた美しい聖所は、天の神の本当の聖所の「写し」または「影」にすぎなかったのです。イエス様は今や、神様が地上の大祭司として与えられた御業を完成(かんせい)させてくださいました。私たちの罪を贖うために自分自身をいけにえとして捧げられた後、御父の右の座に昇(のぼ)られ、ご自身の栄光ある王座を与えられました。そこでイエス様は今でも大祭司としての御業を続けてくださっています。これは祭司としてのとりなしの、永遠の務めです。ヘブル書7:25でこう言われているとおりです。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」私たちが教会として集い、イエス様の御名によって神様を礼拝するとき、イエス様はその時に、私たちのために御父のあわれみと祝福を願ってくださいます。なぜクリスチャンの礼拝が重要なのか分かりますか。私たちが御子なるイエス様を通して神様を礼拝するとき、御父は御子のことを聞かれ、イエス様のゆえに祝福を私たちに注いでくださるのです。私たちは自分たちの目でこのことを見ることはできませんが、聖書はこのことを教えているのです。私たちの礼拝は、神様ご自身がそれを求められるがゆえに、重要です。私たちが礼拝する時、私たちは父なる神、御子、御霊が深く関心を持たれる天の活動に参加しているのです。クリスチャン兄弟姉妹が心と魂(たましい)を一つにして、イエス・キリストを信じる信仰を通して神様を礼拝する時、そこには計(はか)り知れない特権(とっけん)があり、天の御国を前もって味わうことができるのです。
ヘブル書が礼拝について語るもう一つの事は、私たちがどのように礼拝しなければならないかを、神様ご自身が示しておられるということです。 私たちが礼拝する時、ただ自分が思うままにすることでもなく、人間の言い伝えに従うことでもありません。神様が与えてくださった指示(しじ)に従おうとするのです。5節では、神様がモーセに対して、礼拝のための幕屋をどのように作るかを具体的に指示されたことを思い起こしています。神様はモーセに言われました。「よく注意しなさい。山であなたに示された型(かた)に従って、すべてのものを作りなさい。」イスラエルには、賜物が与えられた多くの芸術家(げいじゅつか)や職人(しょくにん)がいました。なぜ神様は幕屋の設計(せっけい)と建設(けんせつ)を彼らに任されなかったのでしょうか。答えは、神がそれらを明らかにするまで、私たちは天の御国の現実を理解することができないからです。地上の幕屋の型(かた)は、神様についての非常に重要な霊的真理を示すために、モーセに対して与えられました。例えば至聖所(しせいじょ)は、まず庭を囲んでいるかけ幕(まく)があって、さらに幕屋の壁で守られ、そして幕屋の中の垂(た)れ幕(まく)が掛かって至聖所を区別していました。その中の天幕には、ケルビムという神の天の存在の姿が刺繍(ししゅう)されていました。このケルビムは神の御座への道を守ったのです。これらの天幕や壁は、神の聖なる臨在に入ることは容易(ようい)ではないが、可能であることを示しました。特定の祭司たちだけが、決まった時に天幕の中に入ることをゆるされました。そして彼らは特定の捧げ物やいけにえをもって、決まった方法で入らなければならなかったのです。神様はモーセに、「わたしがあなたに示した方法で、わたしのところに来なければならない」と警告(けいこく)しました。幕屋の型(かた)は、私たちの礼拝のための神の設計(せっけい)でした。だからこそ、モーセは神様が与えてくださった型に正確(せいかく)に従って、幕屋を建てたのです。実際、幕屋の最終的な完成が記されている出エジプトの終わりには、すべての部分が「主がモーセに命じられたとおりに」完成したと言われています。この言葉は出エジプト記39-40章で17回も繰り返(かえ)されているのです。なぜこの事実が強調されているのでしょうか?それは、私たちが神様の前にどのように来るべきかを、神様が私たちに知ってほしいと願っておられるからです。幕屋の設計(せっけい)は、モーセとイスラエルの民に対して、「失われた羊」が神の家の安全を見つける一種(いっしゅ)の「地図」を与えてくださっているのです。神様は私たちが自分自身でその道を見つけることを期待(きたい)されません。神様が私たちに道を示してくださるのです。幕屋の礼拝の型は、私たちが従うために与えられた地図です。もし神様ご自身が私たちに、完璧(かんぺき)な型を提供してくださっているとしたら、誰が礼拝のためにもっと良い方法を設計することができるでしょうか?もちろんできるわけがありません!これが、神様が私たちに独自(どくじ)の形(かたち)やスタイルの礼拝を作り出す自由を与えておられない理由です。私たちは、神様を礼拝するとき、自分のやりかたを新しく作り出すのではなく、聖書の指示に注意深く従うべきなのです。
B. Our New Covenant Mediator
キリストの不可欠な務めについての第二の部分は、6-13節で示されています。この箇所のほとんどは、神の契約に関する預言者エレミヤからの長い引用です。この預言の要点は、神様ご自身が保証(ほしょう)してくださる、新しい契約の約束です。二者(にしゃ)の間の通常の契約とは、当事者(とうじしゃ)が特定の行為を行い、一定(いってい)の利益を受けるという合意のようなものです。神様ご自身は、自分自身とイスラエルとの間に、シナイ山で契約を結んでくださいました。神は恵みによってエジプトでの奴隷の状態からイスラエルを救い出されました。そして神様は恵みによって、イスラエルをご自身の民とし、ご自身が主権のある保護者(ほごしゃ)として彼らの神となってくださるという約束をしてくださったのです。しかし、神様はイスラエルに対して、若い花嫁(はなよめ)が夫に忠実でなければならないように、イスラエルも神様に忠実であることをお求めになりました。そして神様はイスラエルに、イスラエルの歩みを導く、道徳律法をお与えになったのです。イスラエルは神様の契約の条件に同意(どうい)しました。この契約については、出エジプト記24:7-8で見ることができます。モーセは、まず、二頭の子牛をほふって、その血を取り、民のいのちの象徴(しょうちょう)として用意をしました。「そして[モーセは]、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。『【主】の仰せられたことはみな行い、聞き従います。』そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべてのことばに関して、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。』」神様との契約を結ぶことは終生(しゅうせい)の厳粛(げんしゅく)な約束でした。
もしみなさんがイスラエルの歴史を少しでも覚えていれば、イスラエルの人々はこの言葉を守らなかったということを知っているはずです。エレミヤの時代に、イスラエルの民は征服(せいふく)され、散らされ、故郷(こきょう)から追い出されました。しかし、神様はもう一度、恵みによって、堕落した悲惨な民を元通りにすることを約束されました。神は、イスラエルの民とユダの民とに対して、新しい契約を結ぶとおっしゃったのです。この新しい契約は、失敗した最初の契約の単純な繰り返しではありません。どのようにでしょうか?この新しい契約は、前の契約とどう違うのでしょうか?ヘブル8:6では、イエス様こそが違いであると言われています。「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定(せいてい)された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。」最初の約束が失敗したとしても、この新しい契約は成功します。なぜなら、イエス様のさらにすぐれた務めがあるからです。イエス様はこの新しい契約の「仲介者」です。イエス様がどのようにこの仲介者としての務めを果たされるかについては、次の章以降でさらに見ることができます。ここでは、この重要な事実のみを気付く必要があるのです。それは、イエス様ご自身が、新しい契約の「仲介者」であるということです。この場合、仲介者という言葉は、神様が新しい契約を与えてくださる人々をイエス様がどのように代表されるかを表す言葉です。7章22節では、イエス様は「さらにすぐれた契約の保証」と呼ばれています。エレミヤが述べた最初の契約では、モーセが仲介者でした。しかし、モーセは、イスラエルがその契約を守ることを保証することはできませんでした。モーセはイスラエルに律法を与えましたが、イスラエルもモーセも、神の契約の律法を完全に守ってはいませんでした。しかしイエス様は律法を守られたのです。イエス様は、神と人との間の仲保者(ちゅうほしゃ)として、新しい契約のすべての要求を満たされたのです。新しい契約は「さらにすぐれた約束に基づいて制定された」ものです。なぜなら、イエス様が私たちのために契約を守ってくださることを約束してくださったからです。イエス様が天の神の右の座に座(すわ)られたとき、新しい契約が成就(じょうじゅ)したと宣言されたのです。
契約の仲保者としてのキリストの務めは、神の律法の外側(そとがわ)の要件(ようけん)を満たすだけでなく、3つの重要な方法で私たちを変えるのです。まず第一に、神様は10節でこうおっしゃいます。「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。」以前の契約とは異なり、新しい契約は、神様が人の心を変え、律法を守ることを望むようにされるという約束をもたらします。この心の内的(ないてき)な変化は、神様の完全な律法の良さと正しさに対して、私たちの目を開きます。パウロのローマ人への手紙の中で、神を拒む者は「自分では知者であると言いながら、愚かな者」であると言っていますが、キリストにある新しい契約を通して、人の心はへりくだり、知恵ある者になるのです。第二に、エレミヤの預言は、この新しい契約がキリストの務めによって成就(じょうじゅ)されたとき、この契約を通して神のもとに来た全ての者が神の民となり、主が彼らの神となるということを教えています。この新しい契約によって、みなが神を知り、神として礼拝するようになります。神はもはや、よくわからない、不思議な「未知(みち)の」神ではなく、私たちと一緒にいてくださる、「インマヌエル」なる神、私たちをそばで守り、導いてくださる神となってくださるのです。これは二つ目の内面的な変化です。そして最後に、エレミヤは、この新しい契約を通して、私たちのすべての罪のために完全、かつ無償(むしょう)の赦しが与えられるということを教えています。神様はこう約束しておられます。「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
III. CONCLUSION 結論
今日のヘブル書の学びを終わるにあたって、最初の質問をもう一度聞いてみたいと思います。私たちはどうして今日ここに来たのでしょうか?私たちは神を礼拝するために来ました。しかし、このことは、イエス・キリストの不可欠な務めを知り、それを感謝するようになった人々にのみ可能です。イエス様は、贖い主としての務めを果たされた後、父の右の座に座おすわりになりました。イエス様の贖いの御業は終わったのです。しかし、私たちのためのキリストのとりなしの働きは終わりません。永遠に続くのです。イエス様は私たちを弁護してくださる方であるため、私たちは大胆に神に近づき、礼拝する権利が与えられているのです。私たちにとって、キリストのとりなしの務めは不可欠です。 そして、新しい契約の仲保者としての主イエス・キリストの務めを決して忘れてはなりません。ずっと前にイスラエルとユダの人々に希望を与えたのは、神の新しい契約の約束でした。そして、今日(こんにち)の私たちに希望を与えるのは、その新しい契約をキリストが成就してくださったことです。キリストを通して、私たちは神様がどんなお方なのかを知るようになりました。そして私たちはキリストを私たちの神、そして救い主として呼ばわり、自信を持ってキリストの恵みの御座に近づくのです。私たちの罪はゆるされているからです。神様の新しい契約の仲保者としてのイエス様の務めは本当に私たちにとっては不可欠なものです。