KASUMIGAOKA
2017/10/22
SERMON: 「恵みによってのみ救われる」 “Saved By Grace Alone”
TEXT: Ephesians 2:1-10
I. INTRODUCTION Luther’s Discovery of Grace and Faith イントロダクション
宗教改革は、人間の歴史の流れを変えるような出来事でした。それは、無名のローマ・カトリックの修道士であったマルティン・ルターが、500年前にヴィッテンベルグ大学のチャペルの門に95箇条の提題を貼り出したことから始まりました。それでは何がルターに、力あるローマ・カトリック教会と、その絶対的なリーダーである教皇に対して挑戦するという大胆さを与えたのでしょうか。ルターの勇気は、聖書を学ぶことから来たのです。ローマ人への手紙を学ぶ中で、ルターはローマ1:17を思い巡らしました。「なぜなら、 福音のうちには神の義が啓示されていて、 その義は、 信仰に始まり信仰に進ませるからです。 『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」そして徐々に、ルターは、どんな人でも永遠の命に入れられるのにふさわしくなるために必要なのは、神様ご自身の義にほかならないということに確信を持って来ました。どれほど注意深く神の律法を守ろうとしても、人間は自分自身の義によっては義と認められないのです。人間には神の完全な義が必要で、それはイエス・キリストを信じる信仰によって私たちに転嫁されなければならないのです。この一つの洞察が、一人の若いアウグスチノ修道士の全てを変えました。もしこれが正しければ、中世のローマ・カトリックで生み出された教えは全て誤りであるとルターは考えたのです。それでは、どのようにしてその間違った教えは正されるべきか。マルティン・ルターは、彼が戦うべき対象を注意深く選びました。彼は、ローマ・カトリックの罪と赦しについての教え、そして免罪符の販売について、批判するところから始めたのです。
先週私は、ルターの95箇条の提題は、カトリック教会の免罪符の販売を主な批判の対象にしていると申し上げました。「免罪符」は、ローマ教皇からの罪の赦しの証明であると広く知られていました。誰かが罪を犯せば、その人はバチカンに捧げ物を捧げて、その結果、教会から罪をゆるされたことを示す証明書を受け取るのです。この証明書が「免罪符」です。クリスチャンは、悪い行いとバランスを取るために善い行いをしないといけない、という考え方はローマ・カトリックの教えに根ざしたものでした。特別な捧げ物を捧げるのは良い行いだったのです。この教えはそれ自体が神学的な誤りですが、一般の教会員たちの中でさらに多くの神学的な問題を起こしました。例えば、多くの人は、前もって「免罪符」を購入しておけば、救いの希望を脅かすこと無く、将来も罪を犯す権利があると考えました。またある人は、他の人の罪の弁償としてお金を払うこともできると考えました。罪の赦しは、カトリック教会というお店が販売する、単なる商品になってしまったのです。当時のすべての人は、罪というのは教会の掟に違反することであり、教会はそれを赦すことができると考えました。罪は神に対してのものであり、神様のみがそれを赦すことができると理解していた人は殆どいなかったようです。しかしマルティンルターはこれを理解しました。
ルターは、免罪符の販売が、罪や赦し、福音の重要性についての深刻な誤解を広めることに気づきました。免罪符の販売は、それに伴う神学的な誤りと併せて、すぐに中止されなければならない。クリスチャンは、自分の罪が洗い流されるために、補償金を払うことができるなどと考えてはいけない。お金で人間の道徳的な問題を解決することはできないのです。そして良い行いも私たちに希望を与えてはくれません。どんな良い行いをしたとしても、私たちの一番小さな罪を贖うことさえできないのです。しかしキリストにはそれができます。キリストは既にその御業を私たちのために行なってくださったのです。私たちは、ローマ・カトリック教会の司祭や司教、教皇を通してではなく、私たちの贖い主を信じる信仰を通して、赦しという神の賜物を受け取りさえすればいいのです。ルターは新約聖書を通してこの教えを発見しました。この神の御言葉の理解こそが、500年前にルターが免罪符の販売に対して立ち上がり、それを批判する自信を与えたのです。
II. THE DOCTRINE OF GRACE IN EPHESIANS エペソ2:1-10にある恵みについて聖書の教え エペソ2章は、私たちの救いにおける神の恵みという根本的な教えに関する、最も明白な説明の一つです。1-3節で使徒パウロは、神の「特別恩恵」(いわゆる「救済恩恵」)を経験する前の、人間の真の霊的な状態を示すところから始めています。そして4-9節では、神がどのようにして超自然的な力や恵みをお用いになって、キリストの御業を通して私たちを救ってくださるかが説明されます。そして最後に10節でパウロは、神の恵みの結果として、私たちの人生がどのようなものになるのかを語ります。この箇所を詳しく見ていきましょう。
(1-3節)エペソ2章は、神の特別恩恵なしには、人間の状態がどのようなものであるのかについて、簡潔に述べています。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった。」もし人々がこのことをよく考え、これを信じたとしたら、キリスト教を除く世界中の殆どの宗教を信じる人はいなくなるでしょう。なぜなら、他の宗教は、自分の状態を改善するために「何かをする」ことを要求するからです。人間はまず神を探し求めなければならない。人間はまず自分の考え方や行動を改めなければならない。人間は何かしらかの道徳的な基準に従うことで、より良い人にならなければならない。他のあらゆる宗教においては、人間は自分の成功や「救い」について、わずかであっても、自らで責任を持たなければならないのです。このような宗教は聖書と比較して、人間の道徳的、霊的な状態について楽観的な意見を持っています。ヒューマニストや宗教を否定するような人たちもまた、通常は楽観的な視点を持っているのです。彼らは全て、人間は自分の努力でどうにかして、もっと良い人間になれると思っています。人間が自分たち自身で進歩できないなら、人間という種は最終的に滅んでしまうからです。しかしキリスト教は何を教えているでしょうか。実は、聖書は人間の将来について、他のどのような宗教や世界観よりも「楽観的」な視点を持っています。しかし同時に、人間が自分たちで問題を解決する能力については、どの宗教よりも「悲観的」でもあるのです。なぜなら、人間ではなく、神様ご自身が、私たちの救いを保証してくださる方だからです。使徒パウロがローマ9:16で書いているとおりです。「したがって、 事は人間の願いや努力によるのではなく、 あわれんでくださる神によるのです。」人間の将来は、全て神の御手の中にあります。クリスチャンの希望は、神のご計画や手段、御力の中で保証されているのであり、人間自身の自らを進歩させる努力によっているのではないのです。だからこそ、パウロは人間の完全な無力さを2:1で示すところから始めています。この事実を捉えない限り、私たちは福音を理解することはできません。
当時のローマ・カトリック教会はキリスト教会として知られたのに、この最も基本的な事実を忘れてしまいました。ルターの時代のカトリックの教えによれば、人は救いを受けるまでに、あることをしないといけません。自らの救いを保証するために、良い行いをしたり、特別な捧げ物をしたり、免罪符を購入したりしないといけないのです。しかし人間は「死んでいる」とき、何ができるでしょうか。使徒パウロがここで何を意味しているかを考える必要があります。もしある人が死ねば、そこに物理的に残るのは肉の身体のみです。その身体は、それ自体では何をすることもできません。自発的に動くこともできなければ、心臓も動かず、脳も活動しません。その身体は、喜びも苦痛も、何も感じることができないのです。そこには「人格」はありません。なぜなら「魂」はもうその身体にはないからです。しかしこのような状態をパウロは説明しているのでしょうか。そうではありません。2節でパウロが言っているのは、もし皆さんが「罪過と罪との中に死んでいた」としても、動いたり感じたりできないわけではないということです。皆さんが「死んでいた」としてもなお、「この世の流れに従い、 空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んで」いたのです。言い換えれば、皆さんは物理的に死んでいたのではなく、別の意味で「死んでいた」のです。
パウロはここで、「霊的に死んでいた」ことを説明しています。なぜなら、彼らが神の御霊を感じたり、それに応答できなくなっているからです。彼らは神の存在に気づかず、神の喜びや神の怒りを感じることができません。彼らは神に忠実に生きることも、行動することもできません。彼らは、神のかたちに造られた道徳的な存在ではなく、獣のようにしか生きられません。パウロはこのことをよく理解していました。なぜなら、彼自身もまた長年このような状態にいたからです。3節でパウロはこう言います。「私たちもみな、 かつては不従順の子らの中にあって、 自分の肉の欲の中に生き、 肉と心の望むままを行い、 ほかの人たちと同じように、 生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」人間は霊的に死んでいるとき、動物と変わらず「肉と心の望むままを行う」のみで、人生においてもっと大事なことを求めないのです。罪の中に死んでいる人たちが、なぜ神様を喜ばせるようなことを少しもできないのか、分かったでしょうか。このような人たちに、神を探し求めたり、善い行いをしたり、自分を進歩させるように言ってもむだなのです。彼らは、自分自身でその霊的に死んでいる状態から蘇ることができません。そして、この状態はすべての人に当てはまることです。神様ご自身が私たちに何かをしてくださらない限り、全人類はこの状態にあるのです。
4-9節では、神様が私たちにしてくださったことをはっきりとパウロは述べています。神様は、その超自然的な御力と恵みを用いて、キリスト・イエスの御業を通して私たちを救ってくださったのです。まず4-5節でパウロは、神が私たちをキリストとともに生かしてくださると言います。しかし、なぜ神様はこのことをしてくださるのでしょうか。神様は、私たちの中に何か良いもの、美しいものがあるからではなく、ただ神様ご自身のご性質のゆえに、私たちに命を与えて下さいます。神様は私たちに対するご自身の豊かなあわれみと、偉大な愛とのゆえに、それを行なってくださったのです。私たちが霊的、道徳的に死んでいる中で、このことのみが神様が私たちに命を与えてくださる動機です。「罪過の中に死んでいた」私たちをさえ、神様は愛してくださったとパウロは言います。私たちはその愛を受け取るに値することを何もしていません。霊的に死んでいた罪人に対する神様のいのちの賜物こそが、神の恵みの究極的な現れなのです。
パウロが強調している二つめの点は、神が「私たちをキリストとともに生かし」てくださるという点です。言い換えるならば、神様は、罪に死んでいた者たちに命を与えてくださる際に、キリストが持っておられる霊的ないのちと同じいのちの状態に彼らを導き入れてくださるということです。実際、神様は彼らを、最も親密なキリストとの個人的な関係性の中に入れてくださるのです。ペテロは、このキリスト・イエスとそれに従う者と関係性を1ペテロ3:18でこう説明しています。「キリストも一度罪のために死なれました。 正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。 それは、 肉においては死に渡され、 霊においては生かされて、 私たちを神のみもとに導くためでした。」この節でペテロは、どのようにしてキリストの死が、罪人と神様との交わりを回復するのかを説明しています。「キリストも一度罪のために死なれました。 正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」イエス様が死なれた時、ご自身の正しいいのちを、悪い人々の代わりに差し出され、それによってイエス様はその罪人たちを神のもとに導くのです。これが贖いについての教えであり、パウロはこのことをエペソ1:7で既に述べています。「この方にあって私たちは、 その血による贖い、 罪の赦しを受けています。 これは神の豊かな恵みによることです。」今日の箇所の2:5-6でパウロが強調しているのは、信じる者の新しい霊的ないのちは、生ける主イエスとの新しい霊的な関係の中あってのみ経験することができるということです。すなわち、救い主なる「キリストのうちに」おいてのみ、新しい霊的ないのちにあずかることができるのです。もし皆さんが聖書を理解しているなら、キリスト教は単なる従うべき「道徳的な基準」ではないことが分かるでしょう。それは生きるべきいのちであり、神との関係を喜ぶことなのです。キリストによって贖われた人はすべて、「ともによみがえらせ、 ともに天の所にすわらせられ」(6節)ます。言い換えると、キリストは贖われた人たちと、全ての霊的な祝福を共有されるということです。キリストは私たちと、栄誉と栄光に満ちたご自身の新しいいのちを共有されるのです。過去は完全に忘れられます。「死は勝利にのまれた」のです。(1コリント15:54)キリストにあって、私たちは過去を振り返って後悔することだけではなく、期待を持って前を向くのです。パウロが7節で言っているように、神様がキリストとの新しいいのちをお与えになったのは、「あとに来る世々において、 このすぐれて豊かな御恵みを、 キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」私たちが既に経験している神様の私たちへの慈愛は、始まりに過ぎないのです。遥かにまさる恵みが、これからもたらされるのです。
パウロは私たちが救いについて理解すべきことを8-9節でまとめています。パウロはこう言います。「あなたがたは、 恵みのゆえに、 信仰によって救われたのです。」この信仰は単なる「感情」ではありません。救い主なるイエス・キリストを信じる信仰なのです。そしてこのキリストを信じる信仰による救いは、神の皆さんへの賜物です。救いは人間からくることはありません。人間の努力によってもたらされるものではないのです。救いは「自分自身から出たことではなく、 神からの賜物です。」もしこれが真実でないなら、ある人は「自分を救った」と思い、「誇る」かもしれません。しかし、自らが単に受けたにすぎないこの賜物を、誰も誇ってはなりません。皆さんの救いも、キリストに導かれた信仰も、誇るようなものでは決してないのです。救いは人間の業ではないからこそ、誰もそれを誇るべきではありません。
このことは、今日の箇所の最後の10節に繋がります。この節においてパウロは私たちの人生が神様の恵みのゆえにどのようなものになるかを説明してくれます。ここでやっと、救いの条件としてローマ・カトリック教会が強調した「良いわざ」が言及されます。しかし、パウロはここで、良いわざは救いの条件や原因ではなく、それは救いの結果であると言います。「私たちは神の作品であって、 良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 神は、 私たちが良い行いに歩むように、 その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」人間の良いわざに関することは、神の御業によって全て計画され、準備され、そして可能にさせられるのです。神が全てを行ってくださったのです。エペソ1:4によれば、私たちの救いは、「神が私たちを世界の基の置かれる前から彼[キリスト]にあって選」ばれたところから始まっています。そしてこの救いは、神様が御子イエス・キリストの血によって私たちを贖い、生かしてくださったことによって歴史において実現しました。最後に、神が私たちの上にあふれさせてくださったこの豊かな恵みの証として、神様が私たちの歩みの中に良い行ないをもたらしてくださるのです。私たちは神の作品であり、キリストにあっていのちが与えられたものとして、キリストの御名のゆえに霊的な実を結ぶのです。
III. CONCLUSION 結論
この神様の驚くべき目的とご計画の中で、神の永遠の御国の中に入れられるために神様が罪人たちに良い行いをお求めになる様子がどこにあるでしょうか。罪人がその罪の代価を支払うために教会で奉仕をしたり、教会にお金を支払ったりする様子がどこにあるでしょうか。そしてさらに、罪人が自らの力で、神の御前に自分の地位を高めるような姿があるでしょうか。もし皆さんが、あなたの救い主であるイエス・キリストの血によって贖われた神の子どもであるなら、これらの答えを既に知っているはずです。皆さんは、かつては罪の中に死んでいた者たちですが、ただ神の恵みによってのみ、神のものとなったのです。神の御国に入るために、皆さんが何かを支払ったのではなく、神様がその代価をあなたのために支払ってくださったのです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのだ」からです。