主に仕える執事

KASUMIGAOKA
2017/10/01 
SERMON: 「主に仕える執事」
“Deacons Who Serve the Lord”
TEXT: Acts 6:1-7; 1 Timothy 3:1-13(esp. vv. 8-13)

I. INTRODUCTION イントロダクション

パウロのテトスへの手紙の学びを通して、そして教会の秋の修養会でも、教会における長老の役割について考えてきました。しかし、どのような人物が良い執事であるのかについては、まだ取り扱っていません。教会が良い執事を必要としていることについてもまだ見れていません。今日の午後には選挙が予定されており、この話題を取り扱うにはすこし遅いかもしれませんが、それでもこのことを考えるのは重要な事です。
「執事」と訳されている言葉は、普通のギリシャ語では「しもべ」を表す言葉です。この言葉は聖書でとても多く用いられていますが、イエス様は特別な尊厳や栄誉をもってこの言葉を見ています。実際、イエス様は、忠実な召使いは、教会や神の御国で最も大きい栄誉を得るとおっしゃっています。ルカの福音書22:14-27を見てみましょう。14-23節は、十字架にかかられる前の晩の、過越の食事において、イエス様と弟子たちが食卓についている、馴染み深いシーンです。イエス様はパンを取り、弟子たちにおっしゃいました。「これは、 あなたがたのために与える、 わたしのからだです。 わたしを覚えてこれを行いなさい。(19節)」イエス様は、ご自身が彼らのために死なれるとおっしゃったのです。そしてご自身が、神の新しい契約を立てるための血を流して死ぬとおっしゃった、そのすぐあとに、弟子たちは議論をはじめました。なんの議論でしょうか。信じられないことですが、彼らは、「だれが一番偉いだろうか(24節)」という議論をしていたのです。この弟子たちはこの段階でイエス様と3年間も一緒にいたにもかかわらず、この後に及んで「誰が偉いか」という議論をしているのです。これは、人間の中でいかに「プライド」が心を掴んでいるかを表しています。弟子たちは、栄誉を受け、個人的な名声を得ることを考えていたのです。しかし、イエス様はそのような彼らのために自らの命を差し出そうとされていたのです。

イエス様は弟子たちを叱ったり、怒ったりはされませんでした。その代わり、彼らを教えたのです。「すると、 イエスは彼らに言われた。 「異邦人の王たちは人々を支配し、 また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。 だが、 あなたがたは、 それではいけません。 あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。 また、 治める人は仕える人のようでありなさい。 食卓に着く人と給仕する者と、 どちらが偉いでしょう。 むろん、 食卓に着く人でしょう。 しかしわたしは、 あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」主イエスは弟子たちに、神の御国での偉大さの新しいモデルを示しているのです。イエス様は、自己犠牲の模範を彼らに示しました。そして使徒パウロは、ピリピ教会の教会員たちに、その模範を思い出すように勧めています。「あなたがたの間では、 そのような心構えでいなさい。 それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、 神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、 仕える者の姿をとり、 人間と同じようになられました。 人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、 死にまで従い、 実に十字架の死にまでも従われました。」これが、キリストが弟子たちに従うように求められた模範です。そしてこれは執事職の模範でもあります。それでは、イエス様が教会の執事にお与えになっている役割について、特に考えていきたいと思います。   

II. THE OFFICE OF DEACON 執事職

イエス様ご自身は、真の偉大さは仕えられることではなく、仕えることを通して得られるものであると、はっきり教えておられます。そしてイエス様は従うべき模範をも与えてくださっているのです。しかし、執事という職務はどこに由来するのでしょうか。イエス様は執事を直接任命されたわけではないのではないか。それではまず第一に、この執事職の必要性について考え、そして第二に、どのようにして執事が任命されるか、そして第三に長老職と執事職の主な違いについて考えてみたいと思います。

第一に、執事たちはなぜキリスト教会で必要なのでしょうか。使徒の働きやテトスへの手紙に記録されている教会の歴史から分かるのは、長老たちは、それぞれの教会が立てられてすぐ、そこで任命されたということです。しかし、執事がすべての教会で最初から任命されたという証拠はありません。なぜでしょうか。執事は必要ではないのでしょうか。執事の按手の最初の記録は、使徒の働き6章に見ることができます。この箇所から分かるのは、エルサレムで教会が急激に成長したことによって、執事が必要になったということです。使徒6:1と6:7では、驚くべき教会の人数の成長について強調されています。ペンテコステの日だけでも、約3000人もの人が洗礼を受け、エルサレムの教会に加わったのです(使徒2:41)。そしてすぐに、使徒4:4では教会の男性の数が5000人になり、それに加えて女性や子供もいたということが言われます。そして、多くの人が多くの捧げ物を教会にし、貧しい教会員のための食べ物や他の必要なものを提供するようになりました。するとすぐに、使徒たちだけで全ての教会の働きの必要を監督することができなくなってきたのです。使徒6:1にはこうあります。「ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、 ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。 彼らのうちのやもめたちが、 毎日の配給でなおざりにされていたからである。」使徒たちは、自分たちだけではこの大きい教会の全ての必要を満たすことができないということに気付いたのです。彼らには助けが必要でした。執事という職務は、使徒たちが教会員の物理的な必要を満たすために、祈りや御言葉を教える奉仕を捨てることのないように、制定されたのです。霊的な必要と物質的な必要は両方とも満たされる必要がありましたが、使徒たちの優先的な働きは、霊的な必要を教会にもたらすためのものでした。だからこそ、使徒たちは教会を集めてこう言ったのです。「私たちが神のことばをあと回しにして、 食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、 兄弟たち。 あなたがたの中から、 御霊と知恵とに満ちた、 評判の良い人たち7人を選びなさい。 私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、 私たちは、 もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」執事という職が定められたのは、使徒たちの第一の奉仕が妨げられることのないためにでした。しかし、教会員の物質的な必要もまた無視されてはなりませんでした。だからこそ、「食卓のこと」、すなわち献金や捧げ物の管理や、食事の買い物や配給、そしてその他の様々なことが、最初の7人の執事たちの手に委ねられたのです。「執事」という言葉(ギリシャ語では「ディアコノス」)はこの箇所では用いられていませんが、1節の「毎日の配給」という言葉は、ギリシャ語では「ディアコニア」です。そして2節の「食卓のことに仕える」という動詞は、ギリシャ語では「ディアコネオー」という動詞が用いられています。興味深いのは、4節の使徒たちの「みことばの奉仕」という言葉にも、ギリシャ語では「ディアコニア」が用いられています。使徒たちと執事たちは、共に教会に「仕える」者たちなのです。

 第二に、この箇所からどのように執事たちがその働きに任命されたかを学ぶことができます。使徒たちの指示によって、最初の7人の執事はエルサレム教会の教会員達によって選ばれたのです。しかし選ばれた者たちはある条件を満たさなければなりませんでした。まず第一に彼らは「評判の良い人たち」でなければならず、第二に、「御霊に満ちた」人でなければなりません。その意味は、彼らの生活が、御霊の実、すなわち「愛、 喜び、 平安、 寛容、 親切、 善意、 誠実、 柔和、 自制(ガラテヤ5:22)」を生活の中で示しているという意味だと思います。そして第三に、彼らは「知恵に満ちた」(3節)人でなければなりません。この条件を満たすような7人が選ばれたのです。そしてこの人達は使徒たちの前に立たされ、キリスト教会で記録されている最初の「按手式」が行われました。祈りの後、使徒たちは「手を彼らの上に置き」、この7人の人たちを執事職という新たな「霊的な職務」へと聖別したのです。 今日の箇所から学ぶことができる第三の点は、クリスチャンの二種類の基本的な奉仕の違いについてです。使徒たちは、キリストの教会において、「みことばの奉仕」も「食卓のことに仕える」のも、どちらも無視されてはならないという原則を立てました。このことから後、使徒たち、そして彼らの継承者である「長老」あるいは「監督」たちは、みことばと祈りの働きに自らを捧げました。そして執事たちは、教会の物質的な必要を提供する働き、すなわち、食べ物や服を提供したり、病人を看病したり、もてなしなどを担当するようになったのです。そこには、「みことばの奉仕(ディアコニア)」と、「食卓の奉仕(ディアコニア)」があるのです。Iペテロ4:10-11で使徒ペテロはこう書いています。「それぞれが賜物を受けているのですから、 神のさまざまな恵みの良い管理者として、 その賜物を用いて、 互いに仕え合いなさい。語る人があれば、 神のことばにふさわしく語り、 奉仕する人があれば、 神が豊かに備えてくださる力によって、 それにふさわしく奉仕しなさい。 それは、 すべてのことにおいて、 イエス・キリストを通して神があがめられるためです。 栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。 アーメン。」それぞれが賜物を用いることで、キリストに仕え、神の栄光を表すのです。長老たちは特に、神のみことばを語る奉仕によって、人々の魂を養います。そして執事たちは、人々の肉体の必要を提供する奉仕をするのです。彼らはどちらもが「しもべ」ですが、彼らの賜物が異なるからこそ、彼らの働きは異なるのです。長老と執事の二つの職務の違いは、彼らが神から与えられた賜物の種類の違いによります。Iテモテ3章に記されている長老と執事の資質の項目を注意深く見ると、とても似ているところもありますが、いくつかの重要な違いもあるのです。

III. QUALIFICATIONS FOR DIACONAL MINISTRY 執事の奉仕の資質(Iテモテ3:8-13 パウロが強調する執事の資質に関する第一のことは、それが長老の資質と似ているということです。3:8でパウロは、「執事もまたこういう人でなければなりません。」と言っています。殆どの点で、執事は長老のようでなければなりません。彼らは、良い評判を保っていなければならず、謹厳で、 信頼がおけ、 「大酒飲みでなく、 不正な利をむさぼらず」、信仰について健全で、「きよい良心をもって信仰の奥義を保って」いる人でなければなりません(9節)。長老と同じように、執事も「非難される点がない」人である必要があります(10節)。もし結婚していれば、一人だけの配偶者を持ち、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません(12節)。 しかし、2つの資質について、長老と執事の間で異なっていると思われる点があります。第一に、長老は「教える能力」がなければならないと言われていますが(2節)、これは執事の場合には要求されていません。エルサレムで最初の執事が任命された際に、使徒たちが最初に区別したように、執事は「食卓の奉仕」の責任を持つべきであるとされ、教会のリーダーである使徒たちが「神のみことばの奉仕」に携わったのです。教会を導く長老たちの権威は、この、神の御言葉を教える能力という霊的な賜物によるのです。執事にはこの資質は要求されていません。なぜなら、執事の義務は、御言葉を教えたり神の教会を牧会することを含んでいないからです。

長老と執事の資質に関する二つ目の違いは、長老は男性でなければならないのに対して、執事は男性でも女性でも良いということです。11節で、パウロは女性が執事職に着くという具体的な許可を与えています。「婦人執事も、・・・」という指示が、執事の資質の途中で書かれているのです。このことをパウロが言ったのは、2:12でパウロが女性に対して制限を与えているからだと思います。パウロは2:12でこう言います。「私は、 女が教えたり男を支配したりすることを許しません。」しかし、執事は長老と違って、誰かを「教えたり」、誰かに「権威を行使する」ことを決して要求されません。だからこそ、権威を行使する長老職に女性は着くことができませんが、それは執事職には当てはまらないのです。全ての教派が、このような二つの職務の違いについての考え方を持っているわけではありません。しかし、他の説明で説得力があるものはあまりありません。例えば、ある人達は「婦人執事」という言葉を「執事の妻」と訳し、これは執事ではなく執事の妻に関する資質について言っていると理解します。しかしここで用いられている言葉は「女性」という言葉であり、その言葉が「妻」を意味するためには、文脈によってそれが明らかでなければなりません。たとえば、「彼ら」という代名詞が「女性」という言葉の前についていた場合、この言葉は明らかに「執事の妻」を意味しますが、そのような代名詞はありません。文脈上、「女性」という意味にしか取ることができないのです。

さらにパウロは女性の執事の例をローマ16:1で提示しています。幾つかの翻訳では「ケンクレヤにある教会のしもべで、 私たちの姉妹であるフィベを、 あなたがたに推薦します。」となっていますが、ここでパウロは、フィべに関する公式な推薦をローマの教会に送っています。パウロは、「あなたがたの助けを必要とすること」に関して彼女に協力をするように頼んでいます。このような文脈の中では、フィべとケンクレヤの教会との公式な関係を示していると考えたほうが適切です。「執事」という言葉が、同じようなかたちでピリピ1:1でパウロがあいさつをしている際に用いられています。「ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、 また監督と執事たちへ。」執事職は、パウロがローマやピリピの教会に手紙を書き送るはるか前にエルサレムで制定されました。だからこそ、パウロはフィべのことをローマの教会に「ケンクレヤの教会のしもべ」ではなく、「ケンクレヤの教会の執事」として紹介していると理解したほうが適切なのです。
パウロは執事職の資質の最後をIテモテ3:13で述べています。「というのは、 執事の務めをりっぱに果たした人は、 良い地歩を占め、 また、 キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」長老や執事の職務は、キリスト教会で大いに尊敬されます。それは、そのような教会員たちが何か特別な権威や権利を持っているからではなく、この職務には犠牲を伴う奉仕が必要だからです。イエス様が弟子たちにマルコ10:42-45で説明されたことを覚えましょう。キリストの教会において最も偉大なのは、「他の人に権力をふるう」人ではなく、主イエス・キリストの足跡に従って、他の人に仕える人なのです。最も大きな栄誉は、忠実なしもべに与えられます。なぜなら、そのしもべは、王の王、主の主なる方のしもべだからです。

IV. CONCLUSION 結論

今日私たちは、長老と執事を選ぶ選挙を行ないます。私たちは神様に、与えられた賜物を用い、職務を忠実に行うような主イエスのしもべを与えてくださるように求めなければなりません。神様がその職務に就くために整えてくださった男性や女性のために祈らなければならないのです。神様が備えられた人を見分け、その人を選ぶのは私たちの約目です。神がご自身の教会にお与えになる長老や執事は、忠実に仕える事により「良い働き」を行ない、「良い評判を保つ」のです。彼らがよく仕えるためには、神の御霊と知恵とに満たされなければなりません。神が私たちに与えてくださる長老や執事たちを励まし、彼らのために祈りましょう。神の助けなしには、誰もこのような重要な働きを行うことはできません。しかし、恐れてはなりません。もし神様から召されているのならば、神様が助けてくださるのです。使徒パウロがIIコリント3:5-6で書いているとおりです。「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。 私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、 新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。」だからこそ、私たちは心を一つにして、神が私たち一人ひとりに与えてくださった賜物を用い、互いに仕え合い、主イエス・キリストの栄光を表しましょう。「仕えられるためではなく、 かえって仕えるため」に来てくださり、 「多くの人のための、 贖いの代価として、 自分のいのちを与えるため」(マルコ10:45)に来てくださった私たちの主なるイエス様の模範を覚えましょう。そして来週の主の晩餐を控える中で、キリスト・イエスのうちに見られる心構えが私たちのうちにも見られるのか、私たちの心を吟味していきましょう(ピリピ2:5)。

カテゴリー: 説教 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です