神の家の管理者

KASUMIGAOKA
2017/09/03
SERMON: “A Steward of God’s House” 「神の家の管理者」
TEXT: Titus 1: 5-9

I. INTRODUCTION  イントロダクション

使徒パウロは、クレテのキリスト教会が正しいリーダーを選ぶことを目的に、テトスにこの手紙を書きました。私たちもまた、霞ヶ丘教会の長老としてどのような人物を選べばよいか考える際に、二つのとても重要なことを覚えたいと思います。まずひとつ目は、教会政治や、誰を長老に選ぶかという問題は、クリスチャンにとってもっとも重要な問題ではないということです。この問題は、あなたが死んでから天国に行くかどうかを決定するような問題ではありません。残念なことに、イエス・キリストの教会は教会の組織やリーダーシップの問題で分裂を繰り返しました。このような問題に対しては、私たちは常に聖書の教えを探し求め、そして聖書の中に見出すことができるパターンに従う必要があります。しかし人間と神との関係という根本的な問い、罪の赦しという希望、永遠のいのちの約束などの事柄は、教会政治についての立場にはよらないのです。私は、改革長老教会の信徒とともに、ローマ・カトリックやバプテスト教会の信徒が、天国で一緒になって喜んでいると思います。

しかし、私たちは教会政治について考える時、もう一つのことを覚えるべきです。それは、神様ご自身が私たちの教会のことを気にかけてくださるということです。私たちを贖ってくださり、この日本の神戸の地で、ともに教会として建てあげてくださっているのはキリストご自身です。そしてキリストは私たちに、どのようにして教会の長老を選ぶべきなのかの指示を与えてくださっているのです。ちょうど使徒パウロを通してテトスに同じ指示を与えられたようにです。5節でパウロはこう書きます。「私があなたをクレテに残したのは、 あなたが残っている仕事の整理をし、 また、 私が指図したように、 町ごとに長老たちを任命するためでした。」パウロは、神のしもべとして、そしてキリストの使徒として、この言葉をテトスに書き送ったのです。キリスト教会の組織やリーダーシップは、神の御前に重要な事柄です。もし私たちが神の規則に従うなら、神様が私たちに用意してくださった長老を得ることができるでしょう。私たちはその長老たちを信頼し、従うことができるのです。使徒パウロはエペソの教会の長老たちにこう言いました。「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。 聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、 あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。(使徒20:28)」教会は、この霞ヶ丘教会もまた、神様のものです。私たちが神の指示に従い、賢く長老を選ぶならば、神様は私たちを導き、守る長老をお与えになってくださるのです。

パウロがテトスに与えた指示は、6-9節にある長老職の「資格」を含みます。その中には、ある者が教会の長老となるために満たさなければならない、3つの基本的な条件があります。先週私たちは一つ目の条件を見ました。それは「家族の中で非難されるところがない者」であるということです。今日は続いて2つ目の条件を考えていきます。それは、「神の家の管理者として非難されるところのない者」であるということです。

II. AN ELDER WHO IS BLAMELSS IN GOD”S HOUSE 神の家で非難されるところのない長老

6節で使徒パウロは、家族の中で「非難されるところがない」というのがどういうことなのかを説明しました。同じように、7-8節では、パウロは長老がどのように「神の家の管理者として非難されるところがない者」であるべきなのかを述べています。具体的な条件を見ていく前に、パウロが同じ職務について2つの異なる言葉を使って説明していることを見ていきましょう。5節でパウロは、この指示は「長老」を任命するためのものであると言っています。6節の条件は、ふさわしい長老を選ぶ際のものです。しかし7節は「監督」という異なる言葉で始まっています。この「監督」という言葉は、今まで使われていた言葉とは違う言葉ですが、同じ職務を指しています。「長老」という言葉も「監督」という言葉も、どちらもエペソ教会の長老を指す言葉として使徒の働き20章で用いられています。20:17では、「パウロは、 ミレトからエペソに使いを送って、 教会の長老たちを呼んだ。」とありますが、20:28の終わりでは、パウロはその長老たちにこう言います。「聖霊は、・・・あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」ですから明らかに、「長老」と「監督」という二つの言葉は、教会の指導者としての同じ職務を指しています。しかし後の時代になって、教会は「監督」という言葉を、長老より高い権威を持つ者として区別するようになったのです。しかし、こういった「監督」の権威を高めるような決定は、聖書に基づくものではありませんでした。使徒パウロによれば、全ての長老は「監督」なのです。

使徒パウロが言うには、神の家を監督する「長老」として選ばれるためには、その人は神の家の管理者として良い評判を持っていなければなりません。1テモテ3:15にはこうあります。「神の家とは生ける神の教会のことであり、 その教会は、 真理の柱また土台です。」私や皆さんが自分の家を気にするように、神様も神の家を気にかけられます。それは教会のことです。誰でも神のもとに来て、自分の罪を告白し、イエス・キリストを信頼するならば、神はその新しい信徒を神の家に歓迎してくださり、ご自身の子供として受け入れてくださるのです。キリスト教会は、神がお造りになった、信じる者同士の霊的な家族です。1世紀のころ、管理者は、裕福な家庭において権威と責任を持った重要な役割でした。管理者は、その家全体のマネージャーのような存在でした。家のすべての部屋の鍵を持ち歩きました。もしコックさんがキッチンでなにか物が必要になったときも、管理者にそれを頼みにいきました。その家のオーナーは、すべての財産を管理者の管理に任せたのです。この管理者という職務は、新約聖書でよく言及されています。おそらく、イエス様はペテロにこうおっしゃった時、管理者の職務が頭のなかにあったのでしょう。(マタイ16:19)「わたしは、 あなたに天の御国のかぎを上げます。 何でもあなたが地上でつなぐなら、 それは天においてもつながれており、 あなたが地上で解くなら、 それは天においても解かれています。」原語を読めば、「鍵」という言葉が複数だということが分かります。なぜ多くの鍵が必要なのでしょうか。ペテロや他の使徒たちは、天の御国において管理者のような存在なのです。彼らは天国の全ての部屋に入らせることも、入らせないこともできるのです。イエス様がペテロに複数の「鍵」(玄関に入る一つの鍵ではなくて)を与えるとおっしゃったのは、おそらくこういう理由からでしょう。

イエス様は管理人の責任について、ルカ12:42でおっしゃっています。主は言われた。 「では、 主人から、 その家のしもべたちを任されて、 食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、 いったいだれでしょう。」管理人は、他のしもべたちの上に立つ者ですが、彼自身もまたその家の主人のしもべなのです。この管理人は食べ物を管理しており、しもべたちにそれをふさわしい時間に与える必要がありました。彼には権威がありましたが、同時に責任もあったのです。この例え話におけるイエス様のしめくくりの言葉は、管理人の責任についてのものでした。(48節)「すべて、 多く与えられた者は多く求められ、 多く任された者は多く要求されます。」大きな信頼を得ている者だけが管理人の職務につくことができたのです。パウロは自身の使徒としての働きについてこう言っています(1コリント4:2)。「こういうわけで、 私たちを、 キリストのしもべ、 また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、 管理者には、 忠実であることが要求されます。」神の教会の管理者として委ねられている大きな権威と責任のゆえに、パウロの評判は確実なものでなければならなかったのです。神の管理者はキリストのしもべとして忠実に仕え、教会の家族の中で、信頼を得ている者でなければなりませんでした。

神の教会の良い管理者とはどのような者なのかをさらに説明するために、パウロはその人の資質について、二つの種類の一覧を書いています。7節では5つの否定的な性質を示しています。つまり、もしこれらのうちの一つでも当てはまるならば、その人は良い長老にはならないということです。8節にある二番目の一覧は、ふさわしい長老の候補者が持つべき、6つの肯定的な性質について述べています。それではまず、7節にある否定的な性質のほうから見ていきましょう。 神の家の管理者はまず「わがまま」ではいけません。わがままな人は、常に自分の思ったことのみを行うように決心しています。なぜなら自分の意見が常に正しいと思うからです。このような人は、他の人の意見を注意深く聞きません。そしてこのような人は、ほとんど重要でない事柄についても議論をしようとします。なぜなら、こういう人は自分の意見が一番良く、自分の意見だけが認められ、皆に採用されたいと思うからです。しかし、主は全ての知恵を一人の人に与えたわけではありません。ヤコブはこう書きました。「私たちはみな、 多くの点で失敗をするものです。 もし、 ことばで失敗をしない人がいたら、 その人は、 からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。(ヤコブ3:2)」わがままな人は自尊心が強く、自分の意見を頑なに保ち続けます。このような人は賢い長老にはなれません。

第二に、パウロは、長老は「短気」ではいけないと言います。わがままな人はしばしば短気でもあります。そのような人は、自分の意見に同意しない人に対して冷静さを失います。良い長老になる人は、他の人の意見を忍耐深く聞き、聞いたことをよく考え、思慮深い応答をします。イエス様の兄弟であるヤコブは、そういう人物としての良い例です。使徒15章で、エルサレムで使徒たちと長老たちの会議が開かれた時、ヤコブはバルナバとパウロの報告を忍耐深く聞き、それをまとめ、聖書の神の御言葉と比較し、自分の判断を会議で述べました。ヤコブは賢く忍耐深い長老であり、人々は彼の決定を信頼しました。ヤコブは教会への自分の手紙の中でこう書いています。(ヤコブ2:19-20)「 しかし、 だれでも、 聞くには早く、 語るにはおそく、 怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、 神の義を実現するものではありません。」ヤコブもまた、長老は短気であってはいけないと理解していたのです。

第三に、長老は「酒飲み」ではいけません。ここで使われている言葉は、お酒に「依存している」人という言葉から来ています。意味として、酔っ払っているという行動を含むかもしれませんが、ギリシャ語では酒に酔っているという別の言葉もあります。もしだれかが、心を落ち着けたり、よく動いたりするためにお酒を飲む「必要」があれば、そのような人をパウロはここで言っているのかもしれません。しかし、重要なポイントは、心地よさや力のためにアルコールに依存しているような人は、長老職の候補にふさわしい人ではないということです。お酒を飲むことは、その人がよりよう働けることには繋がりません。むしろ反対に、パウロがエペソ教会に書き送ったとおりです。「また、 酒に酔ってはいけません。 そこには放蕩があるからです。 御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)キリストの教会の忠実な管理者は、全ての能力が必要です。たび重なる飲酒によって、自分の力を無駄遣いしてはいけません。 第四に、パウロは、長老は「けんか好き」ではならないと言います。ギリシャ語の言葉の意味は、「肉体的に暴力的な人」という意味です。神の家の忠実な管理者は、他の人を説得するために、暴力でおどしてはいけないのです。イエス様は、ルカ12:45で、主人が帰ってくるまで管理人を任された、ふさわしくないしもべのたとえを話されました。そのしもべは心の中でこう言います。「主人の帰りはまだだ。」そして、彼は、「下男や下女を打ちたたき、 食べたり飲んだり、 酒に酔ったりし始めた」のです。しかしその悪い暴力的な管理人は、予期せぬ主人の帰宅に驚くことになります。主人は彼を管理人から解任し、きびしく彼を罰しました。感謝なことに、私たちは教会で他人に暴力的な長老をあまり見ることはありません。しかし残念なことに、自分に従わせようとしたり、自分の意見を通すために、おどしを使うような長老はいるかもしれません。長老は平和の人であるべきで、戦いを楽しむ人ではいけないのです。

最後にパウロは、長老は不正な利を求めてはならないと言います。もちろん、教会から盗むような人は長老としてはふさわしくありません。そして、私たちは、イスラエルに与えられた神からの警告を覚えるべきです。マラキ3:8。「人は神のものを盗むことができようか。ところが、 あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、 あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。 』それは、 十分の一と奉納物によってである。」もし私たちが、与えられた祝福に応じて捧げなければ、それは神への不忠実になるのです。だからこそ、私たちは教会員の契約の中で、「主が富ませてくださるのに応じて主のみわざのために捧げること」を約束します。忠実な長老は、主の働きのために、教会を通して惜しげなく捧げます。しかしさらに教会の外でも、長老は財政や仕事関係においても完全に正直でなければなりません。消費者としても、その人は公正で、受け取る商品やサービスに対して、真実な代価を喜んで支払わなければなりません。従業員としては、勤勉に仕事をし、「人にではなく、 主に仕えるように、 善意をもって仕え」なければなりません。(エペソ6:7)不正な利を求めてはならないのです。

そしてパウロはテトスに対し、良い長老を見分けるために6つの肯定的な性質の一覧を与えています。ざっとこの一覧を見ていきますが、それぞれの性質について注意深く見る必要があります。パウロが言及する最初の性質は「もてなしの心」です。この言葉はギリシャ語では、「旅人に愛を示す」という言葉です。アメリカでは、もてなすという言葉は、「自分の家に人を招いて、食事をごちそうする」という意味で理解されます。もちろん、それも含まれますが、真実な意味はもっと広いものです。この性質について、最もよく理解するためには、イエス様の「善きサマリア人」のたとえを思い出すとよいかもしれません(ルカ10:30-37)。長老は、このような犠牲をともなう親切を、困っている人に施すような人であるべきです。

長老は「善を愛す」べきだと続きます。これは、その人の価値観が、神の善を反映させるようなものであるべきということです。その人は「地上のものを思わず、天にあるものを思う」べきです(コロサイ3:2)。長老はピリピ4:8にある実践的な助言に従うべきです。「最後に、兄弟たち。 すべての真実なこと、 すべての誉れあること、 すべての正しいこと、 すべての清いこと、 すべての愛すべきこと、 すべての評判の良いこと、 そのほか徳と言われること、 称賛に値することがあるならば、 そのようなことに心を留めなさい。」

長老は「慎み深く」あるべきです。この言葉は、現実を理解して行動する人という言葉から来ています。その人は、感情や畏れからではなく、理解にともなって決定をします。緊急や危機の時に冷静でいます。その人は落ち着いていて信頼でき、すぐパニックに陥ったり、トラブルにうろたえるような人ではありません。

長老は「正しく」なくてはなりません。もちろん、「義人はいない。 ひとりもいない。」(ローマ3:10)とあるように、どんな人間もキリストのように完全な義を持ってはいません。しかしパウロはこの言葉を、詩篇1篇と同じように用いています。「正しい」者とは、神を知り、神のおきてに従うことで神を喜ばせるものである。彼は悪者の道を拒み、「【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」者なのです(詩篇1:2)。

長老は「敬虔」でなければいけません。この言葉はおそらく、宗教的な勤めを果たすという意味を含んでいます。安息日を聖とし、規則的に礼拝に参加し、神の御言葉を毎日読み、忠実に祈り、交わりのなかで教会員を励ますというようなことです。しかしこの言葉の基本的な意味は、神を喜ばせるような形で生きて行くということです。つまり、ローマ12:2の助言に従うということです。「この世と調子を合わせてはいけません。 いや、 むしろ、 神のみこころは何か、 すなわち、 何が良いことで、 神に受け入れられ、 完全であるのかをわきまえ知るために、 心の一新によって自分を変えなさい。」

長老は「自制心」がなければなりません。この言葉は、日本語、英語ではともに「自分」という意味を含んでいます。しかし、使徒パウロが用いた、もともとのギリシャ語の言葉には「自分によって制する」という意味はありません。それは「力を持っている状態」という意味の言葉です。それでは、長老の力はどこから来るのでしょうか。最も良い説明は、2コリント5:14にあると思います。パウロは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるから」と言いました。私たちは、キリストが私たちを愛してくださったことを知っており、ご自身のいのちを私たちのために捧げてくださったことを知っているからこそ、キリストの愛が私たちのうちに働いているのです。キリストが私たちに向けて示されたその愛が私たちの人生を取り囲む力なのです。それは、私たちがもはや自分のためにではなく、 自分のために死んでよみがえった方のために生きることができるようにさせてくださる愛です。長老が、神の群れを忠実に牧することができる力は、彼自身の人生に注がれたキリストの愛なのです。キリストの愛がその人のうちに働いている時のみ、長老は他の人に使えることができるのです。

III. CONCLUSION 結論

これが、パウロの描く、神の教会で非難されるところがない管理者として仕える長老の姿です。神様は教会の長老になるための高い標準をお定めになりました。神の愛する家族を監督する長老は、神の聖霊によって整えられ、支えられないといけないのです。誰も自分の力や天然の才能だけによって長老の務めを全うすることが出来ません。でも、幸いに、神の聖霊が必要な賜物、恵みや愛を与えてくださり、単なる人間をすばらしい長老としてくださいます。私たちは教会として、役員選挙を準備している間、神様が誰かをこの大切な職に付くために整えてくださいますように切に祈りましょう。

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