非難されるところがない長老と家族

KASUMIGAOKA

2017/08/27 SERMON: 「非難されるところがない長老と家族」   
TEXT: Titus 1: 5‐9

I. INTRODUCTION イントロダクション

 先週は、パウロがテトスに与えた指示に従って、それぞれの教会で長老を選ぶことの必要性を考えました。クレテにおいて、教会を導くにふさわしい長老抜きでは、教会は正しく組織され、たて上げられませんでした。使徒パウロは続けてテトス1:6-9で、どのような人物が、長老として選ばれ、任命されるのにふさわしいかをテトスに説明しています。この箇所では、1テモテ3:2-7のように、神が長老として備えられる者が持っていなければならない特質について書かれています。この理由で、この箇所は長老職の「資格」について書かれていると言われます。しかし、ここに書かれていることが全てではないことに注意しなければなりません。この短い箇所に書かれている以外の点についても、長老に召される者が持っていなければならない重要な特質はたくさんあります。例えば、「人は、 新しく生まれなければ、 神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)ということを私たちは知っています。しかしパウロはこの最も基礎的なクリスチャンの人生における要求に関しては何も言及していません。イエス・キリストを信じる信仰、キリストの贖罪の死、復活についてパウロは何も行っていないのです。もしくは、パウロは執事を選ぶ時にそうしたように、「御霊と知恵とに満ちた(使徒6:3)」者を長老に選ばなければならないとも言っていません。しかし、これらの資質が今日の箇所に言及されていないからと言って、それらが長老に要求されないとを言えるでしょうか。もちろん言えません。全ての長老たちは、彼らがキリストの者であり、キリストの血によって贖われたものであることを示さなければなりません。彼らは、死者の中からよみがえったキリストを信じる人であることを示さなければならないのです。そして彼らは、へりくだった悔い改めの人であり、彼らの罪のためにキリストの赦しがどれだけ必要なのかを理解していなければなりません。長老になるものは、自分の信仰を言葉と行いによって示さなければならないのです。彼らの生き方は、あらゆる人間関係において御霊の実を実らせるような成熟したクリスチャンとしての証を示さなければなりません。これらのことは全て、長老として仕えるように召される者にとって必要な条件です。しかしこのことは今日の箇所には書かれていません。今日の箇所はあくまで長老の資質の一部を書いているものなのです。

しかし、今日の箇所でパウロが挙げている長老の資質は、その人物の内なる霊的な状態を表す、見える外側の証拠についてです。パウロはその人の教会内外両方での評判に注目しています。パウロは、神によって備えられた長老は「非難されるところがない」と言っています。なぜこれは重要なのでしょうか。それはキリスト教会における長老の位置の問題が関係していると思います。長老は教える長老であれ治める長老であれ、教会の中でかしらとして、キリストの位置に立つ者たちです。1ペテロ5:4でペテロが説明しているように、主イエスは教会の「大牧者」ですが、長老たちもまた、キリストによって群れを守り、導くために遣わされた「牧者」なのです。長老たちはキリストの代理として整えられ、キリストの教会に与えられます。だからこそ、長老たちは、他の人に大牧者の善や義を疑わせるようなことをしてはいけないのです。この理由で、パウロは6,7節で「監督(長老)は非難されるところがない」と言ってるのです。長老の評判は良いものでなければなりません。
パウロが6-9節で述べている長老の資質は、3つの項目に分けられています。「家族の中で非難されるところのない者」、「教会の中で非難されるところのない者」、そして「教理において非難されるところのない者」です。今日はそのうちの一つ目である「家族の中で非難されるところのない者」という部分を考えてみたいと思います。

II. AN ELDER MUST BE ABOVE REPROACH IN HIS FAMILY 長老は家族の中で非難されるところのない者でなければならない(6節)

この部分は使徒パウロが言及する最初の資格であり、ある人にとっては驚くべき内容です。例えば、多くの教会において、ある人の家族における関係よりも、より大きな共同体におけるその人の役割のほうが重要であると考えます。私は幾つもの教会が、そして幾つもの改革長老教会でさえ、ある人が責任のある地位、例えば医者や弁護士、銀行員、教授であるからというだけで、その人を長老に選ぶような姿を見たことがあります。しかしこれは深刻な過ちです。その人の社会的な地位や職場での評判を強調することによって、もっと重要な問いを見過ごしてしまうかもしれないからです。その問いとは、「その人の家族の中での評判はどうか」という問いです。彼は家庭において霊的なリーダーになっているか。彼は妻や子どもたちにふさわしく注意を払い、愛しているか。社会の中で評判がよく、会社で尊敬されている人が、家庭の中で夫や父として怠慢である場合もあるのです。そのような人物は、この最初の基本的な長老の資質にかけています。つまり、家庭において「非難されるところがない」者となれていないのです。

6節を深く見ていく前に、「家族の中で非難されるところがない」というのが、その人が長老となるには、結婚していて子供がいなければならない、という意味であるかを考えてみましょう。独身の男性は長老として選ばれる資格がないのでしょうか。聖書の中では、「長老」として尊敬されながら、父親でもなく、結婚もしていないような人物を見つけることができます。おそらく、旧約聖書のボアズや新約聖書における使徒パウロ自身はその例としてふさわしいと思います。多くの場合、使徒たちや、テトス、テモテ、シラスやマルコのように使徒たちとともに働いた人物が家族を持っているのかを聖書ははっきりと述べません。ペテロや他の何人かが結婚していたことは明らかです。しかし、パウロは「非難されるところがない」ということを、「結婚して子供がいる」ということよりも強調しています。結婚は長老職の賜物があるかどうかを試すための良い機会です。通常、長老職の候補となる人物は年配の男性の場合が多く、そのような男性は通常結婚し、子供を育てたことのある場合が多いです。だからこそ、この箇所が意味するのは、結婚や父親となることは、その人物の性格や信仰を明らかにするための良い機会であるということだと思います。もしある人が結婚しておらず、子供がまだいなかったとしても、長老になる資格はあります。もし彼の個人的な人間関係において彼が「非難されるところのない者」であればです。

それでは、結婚している男性が長老になる資格があるかどうかについて、使徒パウロはどのようなことを言っているのでしょうか。まずパウロが書いているのは、「ひとりの妻の夫である」ということです。ギリシャ語において、「夫」という言葉を「男」という言葉と区別して表現するような言葉はありません。ここでは「男」という言葉が使われています。多くの教会が、まずい聖書釈義や今日の差別主義的意見に従って、聖書が明らかに述べている長老の性別について、それを拒否する方向に導かれていってしまっています。これはとても悲しいことです。長老は女性ではなく「男性」でなくてはならないのです。どのような男性かといえば、「一人の女の男」でなければなりません。おそらく使徒パウロは単純に、創世記が教えていること、そして主イエスがマタイ19:4-6で引用していることに言及しているのだと思います。イエス様はパリサイ人にこうおっしゃいました。「創造者は、 初めから人を男と女に造って、 『それゆえ、 人は父と母を離れ、 その妻と結ばれ、 ふたりは一体となる』と言われたのです。 それを、 あなたがたは読んだことがないのですか。 それで、 もはやふたりではなく、 ひとりなのです。 こういうわけで、 人は、 神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」これはイエス様による簡潔な結婚の定義です。一人の男性と一人の女性が一体となり、夫婦として新しいものとなるということです。健全な結婚には、二人が一致して機能するという調和があります。彼らは一つの身体のように「一体」として、夫婦のために、そして彼らの子どもたちのためにともに働くのです。死ぬこと以外でこんな結婚は解消されることがありません。神によって結び付けられるものこそ結婚なのです。「人は、 神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」もし結婚している男性が、このような安定し、調和し、離れることのない関係を、妻とのあいだに持っていないのであれば、その人は長老にはふさわしくないとみなされるのです。

そして、「一人の女の男」であるということから、もう一つのことが言えると思います。それは、結婚した夫婦は一つの身体として、一つの「かしら」のみを持つべきだということです。時々、動物が悲惨な欠陥を持って生まれてくることがあります。元町の高架下の商店街で、奇妙な展示がありました。それは二つの頭がある剥製の豚です。このような動物は長くは生きられません。同じように、男性と女性が一体となろうとしながら、二つの「かしら」となろうとするなら、その結婚は長続きしないでしょう。エペソ5:23はこう言います。「なぜなら、 キリストは教会のかしらであって、 ご自身がそのからだの救い主であられるように、 夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、 妻も、 すべてのことにおいて、 夫に従うべきです。」神によって生み出され、祝福された結婚においては、一体となった一つのからだと、一つのかしらがあるのです。だからこそ、キリストの教会の長老としてふさわしい、「一人の女の男」である者は、結婚という一体における「かしら」でなければならないのです。それは、忠実な夫として、リストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、自分の妻を愛する者であるという意味です(エペソ5:25)。通常、家族の中で重要な決定をするときは、このような夫婦は合意を求めようとするでしょう。しかし、もし合意が容易にできない場合は、妻は喜んで夫の決定に従うのです。パウロは「一人の女の男」というとき、このようなことを意図していたのでしょう。もし、男性がこのような祝福された結婚における夫でありかしらであるなら、彼の結婚生活は周りから非難されるところのないものとなるでしょう。

 しかし、もしそのような結婚の中に子供が生まれたら、その子どもたちは家族の重要な一部になります。しばしば、もし子供がふさわしくない態度を取ると、その親の評判が傷つけられる場合があります。詩篇127篇では、主に祝福された家族の歩みがあらわされています。「彼らは、 門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。」町の門というのは、長老たちが決定を下す時に集まる場所でした。もし、ある者の子供がふさわしくない態度を取れば、敵は長老たちの前でそれを理由にその人を非難するでしょう。そうなれば、その人は公の場で恥をかくことになります。しかしもし、その人の子供がよくしつけられていて、言うことを聞いていれば、敵は非難したり文句を言ったりする理由がなくなります。そのような人は、子供を避難されるところがないものとして育てたという点で、祝福されているのです。しかしパウロは、この詩篇が言っている以上のことを言っています。パウロは、長老になる資格のある者の子供は「信者」でなければならないと言っているのです。これは、単に態度がよい子供という以上に難しい条件です。つまり、道徳的な要素だけでなく、霊的な要素においても子供を訓練しなければならないということです。その人の家庭の中に、霊的な実が見られなければならないということです。忠実な父親は、子どもたちの救いのために、彼らがイエス・キリストに信頼するように、自らの言葉と模範でもって彼らを導くべきです。その人の家庭は、まず彼自身の祈りと証への集中が第一になされるべきです。全ての忠実な父親にとって、自分の子どもたちを神の恵みの御座に導くことは目標とされるべきです。しかしそれはとても困難なことでもあります。私たちの子どもたちは、私たちの罪や弱さを日々見ています。だからこそ、子供が両親と同じ信仰に来た時に、そのことは神の恵みの素晴らしい証になるのです。これが、神様がある人を長老に整えられていることの証拠になります。パウロは、その人の「全ての」子供が信者でなければならないとは言いません。しかしもし、家庭の中で一人でも、忠実な父親によってキリストを信じるように説得されない子供がいるなら、その人の長老となる霊的な資格について問う理由がある可能性があるでしょう。

 6節で言及される最後の条件は、「不品行を責められたり、反抗的であったりしない」ということです。ほとんどの注解者は、これをその人の子供に関することとして理解します。しかし、ギリシャ語には、これが父親自身ではなく子どもたちのことであるということを示すものは何もありません。おそらく両方が意図されているのでしょう。もし父親が言葉について、時間やお金の使い方について、誠実さについて、家庭における信頼について注意を払わないとすれば、職場の同僚や教会の友人はそれに気付かないかもしれません。しかし家庭の子どもたちは気付くのです。そしてもっと悪いことに、子どもたちはその父親の例にならっていくのです。もしこの条件が子どもたちのことを言っているのであれば、その意味は1テモテ3:4,5に近いものになるでしょう。「自分の家庭をよく治め、 十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。 −−自分自身の家庭を治めることを知らない人が、 どうして神の教会の世話をすることができるでしょう−−」ここでは、その人がどのように自分の家庭の世話をするかということと、どのように「生ける神の教会である神の家」の管理をするかということの、明確な繋がりを見ることができます。その人の家庭というのは、その人が訓練され、キリストの教会を導く賜物があることを証明する場なのです。もし、その人が自分の家庭を「非難されるところのない」ものとして牧会することができないならば、どうしてその人は神の教会を牧会することができるでしょうか。

III.CONCLUSION   結論
長老職に対する「資格」の最初の部分を学ぶしめくくりに、長老という職務にとって、男性の妻や子供に対する関係性がなぜ重要なのかを覚えましょう。よい長老が備えるべきもっとも重要な特質は、神に捧げられた心です。その人の本当の性質を見極める最も良い方法の一つが、その人が自分の心に最も近い、妻や子供たちをどう扱っているかを観察することです。ほとんどの男性は家族を愛していますが、成熟したクリスチャンのみ、自分の家族をキリストに導くことは、自分の家族を愛するのに最もよい方法であることを理解するでしょう。そして成熟したクリスチャンは、自分の家族を牧会することを通して彼のキリストへの愛を示すのです。その人は、聖書を知るためだけに読むのではなく、それを行うために読みます。その人は、神の御言葉の教えを、自分の家庭で実践します。その人は、自分の家族を神の御言葉にしたがって導くことによってのみ、神様の祝福や平安がその家庭に与えられるということを知っています。家族との関係を通して、その人の信仰、性格や奉仕の賜物が明らかにされるのです。これが、長老を選ぶ時に、その人の家族についての事柄をまず見るように言われている理由です。

家族生活は簡単なものではありません。私たちはクリスチャンホームを建てあげる時、多くの困難に直面します。多くのへりくだった祈りが必要になります。神の御ことばを忠実に学び、家庭生活に摘要することも必要です。はっきりとした確信を持ったリーダーシップが必要です。それによって私たちの家族はこの世に置ける様々な危険から守られるのです。その家族生活において、男性は日毎に必要な知恵、保護、恵みを得るために、いかに主により頼まないといけないのかを学べます。家族の中で、男性は詩篇127篇にある実践的な真理を学ぶのです。「【主】が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」このことを会得している男性こそが、長老として選ばれるべき男性です。教会は、そのような長老、すなわち、家族関係において非難されるところのない長老を求めないといけないのです。来週は、長老に選ばれる人が満たすべき、他の二つの条件について考えていきたいと思います。

カテゴリー: 説教 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です