伝道の実りである悔い改めと礼拝

KASUMIGAOKA
2017/08/06 SERMON: 「伝道の実りである悔い改めと礼拝」“Fruits of Evangelism: Repentance and Worship”
TEXT: ヨハネの福音書4:16-26    

I. INTRODUCTION イントロダクション

最も古い人間の文明にも、何かしらかの宗教や「神礼拝」の証拠があると言われています。なにが人間を神を礼拝することへと導くのでしょうか。今日において、日本で一番古い宗教は神道かもしれません。今の時代にも、日本中で古い神社を診ることができます。それではなぜ、日本人の祖先は、いまの場所に神社を建てたのでしょうか。それは、人間が「畏れ」や「驚異」を経験したような場所であると本で読んだことがあります。神社は山の頂上や、美しい滝のそばや、静かな古い木だちなどに建てられました。それは、その場所に神がやどり、人間に驚異の感情を与えると考えられたからです。

キリスト教も、私たちが自然のすばらしい美しさによって、畏れで満たされるべきであると教えます。だからこそ私たちは自然の栄光を通して創造主を礼拝するのです。詩篇33:6-8の言葉を聞きましょう。「【主】のことばによって、 天は造られた。天の万象もすべて、 御口のいぶきによって。主は海の水をせきのように集め、深い水を倉に収められる。全地よ。 【主】を恐れよ。 世界に住む者よ。 みな、 主の前におののけ。」また、詩篇65:6-8はこう語ります。「あなたは、 御力によって山々を堅く建て、 力を帯びておられます。 あなたは、 海のとどろき、 その大波のとどろき、また国々の民の騒ぎを静められます。 地の果て果てに住む者もあなたの数々のしるしを恐れます。あなたは、 朝と夕べの起こる所を、高らかに歌うようにされます。」私たちはクリスチャンとして、神の驚くべき御業によって私たちが畏れで満たされるからこそ、神を礼拝すべきなのです。しかし、それだけが唯一の理由ではありません。むしろ、それは私たちが神を礼拝する主な礼拝ですらないのです。クリスチャンは、神の私たちへの憐れみのゆえに、神を礼拝するのです。私たちは、自分の罪から贖ってくださり、悲惨から救ってくださった神様を礼拝するのです。これがクリスチャンの礼拝の中心です。そしてこれが、キリスト教と他の宗教が決定的に違うところです。神はご自身を救い主として私たちにお表しになりました。神はご自身の民を愛し、哀れまれるお方です。しかし、その神の憐れみと赦しを個人的に経験した者だけが、神を救い主として礼拝できるのです。だれでも、神の憐れみをしる前に、まず自分自身がいかに神の御前に堕落しているのかに気付かなければなりません。自分がふさわしくないものであることを理解して初めて、神の驚くべき恵みに感謝し、ふさわしく神を礼拝することができるようになるのです。この神の恵みを、イエス様はサマリヤ人の女性に16-26節で示しています。神は、自分の罪を告白し、神の恵みによりたのむ人だけに憐れみをお示しになるのです。これは福音のメッセージの不可欠な部分です。 今日の箇所でまずイエス様は女性の罪深さをお示しになります。女性の道徳的な失敗です。これによって女性は正しく神の憐れみの偉大さを理解するようになるのです。女性が自分の罪に向き合い、神の憐れみの意味に気付いて初めて、イエス様はこの女性に、彼女の罪を赦してくださる神をどのように礼拝すべきかをお示しになるのです。悔い改めと礼拝は、伝道によって福音を受ける人の人生にもたらされる実のうちの二つです。それではどのようにイエス様がこの2つのこと、悔い改めと礼拝を取り扱われるのか、イエス様がサマリヤ人の女性に福音をもたらされるところから考えてみましょう。

II. THE GOSPEL’S CALL TO REPENT 福音がもたらす悔い改めへの召し (vv.16-19)

先週は、イエス様がどのようにしてサマリヤの井戸であった、見ず知らずの女性に伝道の会話を始められたかについて見ました。すぐにエス様は、「生ける水」と呼ばれた神からの賜物を、女性がイエス様から求めるように導かれました。彼女は自分のためにこの賜物を求めたのです。伝道の働きをするとき、人々をキリストに、もしくは神の御国に、教会にむりやり押し込もうとするようなクリスチャンが多すぎます。彼らに主の賜物がどれほど良いものかを示し、そこに導くのではなくてです。しかし、キリストがその人にとても良い賜物を与えてくださるんだということを説得するのは、福音のメッセージの最初の部分に過ぎません。伝道の次の部分はもっと難しく、特に知らない人にとってはとてもむずかしいものです。この部分とは、罪をあらわにするという部分です。時々、人々は伝道は、釣り竿で魚釣りをするようなものだと考えます。魚を釣り上げるためには、魅力的な疑似餌(ルアー)や餌が必要です。しかし、伝道の目標は、単にたくさんの魚を釣り上げることではありません。私たちの目的は、大勢の人々を教会につれてくることではありません。私たちの伝道の目的は、心が変えられるということです。目標は、イエス様に従う弟子を作ることなのです。サマリヤ人の女性はイエス様に神様の賜物を求めましたが、彼女が自分の罪を自覚し、悔い改めない限りは、彼女はパリサイ人と何も変わらないのです。彼女は、自分が良い人間だから、神の賜物を受ける権利があるとさえ思ったかもしれません。しかし、イエス様はこのような深刻な過ちを彼女に犯させることはありませんでした。だからこそ、この女性が神の賜物に興味を示し、イエス様にそれを求めた時、イエス様はすぐに彼女の罪を明らかにされたのです。それではどのようにイエス様はそのことをされたのでしょうか。

イエス様は単純に、行って夫を連れて来なさいと女性に言いました。これは大抵の人にとっては難しい要求ではありません。おそらくほとんどの女性は、このイエス様の単純な要求に応じるでしょう。しかし、イエス様はこの女性の隠された罪を知っておられたのです。イエス様はこの女性の心の中をご存知で、彼女が他の人から隠そうとしていたものをご存知だったのです。彼女の秘密とは、法的に結婚していない男性と同棲をしているということでした。(これはいまの時代は当たり前のことになっているかもしれませんが、神の目から見れば深刻な不品行です。)もしイエス様がこの罪をご存知だったとしたら、なぜイエス様は夫を連れてくるようにと女性に言ったのでしょうか。二つの理由があると思います。まず第一に、イエス様は女性に罪を告白する機会を与えておられたのです。似たような状況が、イエス様がお生まれになる遥か前に起こりました。このときは、別の女性が大きな罪を犯し、神から隠れようとしたのです。しかし神はその罪をすべてご存知でした。にもかかわらず、神はエバとアダムに、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられたのです。神様は彼らが隠れているところに太陽の輝きを与えて、罪を明らかにすることも可能だったはずです。にもかかわらず、神様はエバとアダムに、このような質問をすることで罪を告白する機会をお与えになったのです。「あなたはどこにいるのか」「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。」そして「あなたは、 食べてはならない、 と命じておいた木から食べたのか。」という問いかけです。イエス様がサマリヤ人の女性に、「行って、 あなたの夫をここに呼んで来なさい。」とおっしゃったとき、イエス様は彼女に罪を告白するように招いておられたのです。ここに見られるように、神様が私たちに罪を告白するようにお招きになるとき、神様は私たちに素晴らしい機会を与えてくださっているのです。その機会とは、神様が罪人のために用意してくださった、悔い改めと回復へと至る道に入る機会です。伝道しようとしたいのなら、誰かを罪や犯罪で告発するより、その人を罪の告白へ導くことのほうがよいことだと思います。サマリヤ人は、ほとんど知らなかったイエス様に自分の罪を告白するのに乗り気ではありませんでした。しかし、その女性はイエス様に嘘をつこうとはしませんでした。「女は答えて言った。 『私には夫はありません。』」彼女はイエス様に完全に罪を告白したわけではありませんが、真実を答えようとしたのです。彼女が少しずつ自分の罪を告白するように主に導かれました。イエス様は彼女に、自分の罪を考え、それを告白する機会をお与えになったのです。 イエス様が女性に夫を連れてくるように言った2つめの理由は、イエス様からはどんな罪も隠れることはできないということをお示しになろうとしたからではないかと思います。ヘブル4:13はこう言います。「造られたもので、 神の前で隠れおおせるものは何一つなく、 神の目には、 すべてが裸であり、 さらけ出されています。 私たちはこの神に対して弁明をするのです。」女性が、「夫はありません」と答えるとすぐ、イエス様は彼女に、自分の罪を隠すのは不可能であることお示しになりました。「私には夫がないというのは、 もっともです。 あなたには夫が五人あったが、 今あなたといっしょにいるのは、 あなたの夫ではないからです。 あなたが言ったことはほんとうです。」ある人は、このイエス様の言葉は厳しく、断罪するようなものであると考えるかもしれません。しかし、この女性自身が、イエス様の言葉を、不適切であったり優しくないとは受け取っていないことに注意しましょう。このイエス様のことばは、怒りではなく、むしろ悲しんでいるような声だったのではないかと思います。ともかく、今日多くの人がするように、この女性は自分の不品行な生活を弁護したり、言い訳をしたわけではありませんでした。むしろ、単純に自分の罪の告白をイエス様の御前に行なったのです。彼女は自分の罪を認め、こう言いました。「先生。 あなたは預言者だと思います。(19節)」イエス様がおっしゃったことは全て真実でした。彼女はそれを否定できず、また否定しようともしなかったのです。彼女は、全てを見通す神の目から隠れることはできなかったのです。 どのようにしてこの女性は自分の罪を告白したでしょうか。イエス様を預言者だということによってです。「預言者」という言葉は、未来を予言するという意味ではありません。また、「心を読む」、メンタル・テレパシーができると言うような意味でもありません。ユダヤ人やサマリヤ人にとって、「預言者」とは、民に御言葉を伝えるために神様によって召された人という意味です。サマリヤ人は旧約聖書の中の預言書を聖書とは認めませんでした。しかし彼らも、トーラーやモーセの律法とも呼ばれる聖書の最初の五巻については信じていました。サマリヤ人の女性は、モーセが神の預言者であることを知っていたのです。預言者として、モーセは神の御言葉を宣言し、たびたび罪を捨て、神の律法に従うようにイスラエルに警告をしていました。サマリヤ人の女性がイエス様を預言者と呼んだ時、彼女はイエス様のことばが真実であることを認識し、告白しているのです。彼女は、不品行を捨てて、神に従うように立ち返るようにイエス様が召していることに気づいたのです。それはまさに預言者の仕事でした。イエス様は明らかにそのような預言者だったのです。女性がイエス様に「あなたは預言者だと思います」と言った時、この女性はイエス様が指摘されたとおりに、完全な罪の告白をしたんだと思います。このこともまた、女性の心がイエス様との出会いによって変えられたことを示していると思います。彼女は自分の人生を変えたいと思っているのです。このことが、イエス様の伝道的なメッセージの二つ目の大きなテーマへと繋がります。それは礼拝です。    

III. THE GOSPEL’S CALL TO WORSHIP GOD 福音がもたらす神礼拝への召し (vv.20-26)

サマリヤ人として、この女性は、神が預言者を通してお語りになっていて、悔い改めて神に仕えるように召しておられると理解しました。何人かの神学者は、彼女の次の言葉は、会話の主題を変えようとして彼女が発したものだと説明します。しかし、私は彼女が自分の罪と向き合うことを避けようとしたとは思えません。彼女はまさに直前に、イエス様に指摘された自分の罪を完全に告白したからです。しかし、彼女は次の主題に早く移りたかったことは事実です。それは彼女がどのようにして神の御前に回復させられるかと言う問題です。ユダヤ人もサマリヤ人も、罪はいけにえによって贖われなければならないと信じていました。ユダヤ人はエルサレムの神殿の前でいけにえを捧げていましたが、サマリヤ人はゲリジム山の祭壇にいけにえを持っていって、そこでいけにえを捧げていたのです。サマリヤ人の女性が、どこで神を礼拝すべきかを聞いたのは、つまらない質問でも、架空の質問でもありませんでした。むしろ、それはとても個人的な質問です。彼女は「罪のためのいけにえをどこに持っていけば、神の御前に回復させられるでしょうか」ということを聞いていたんだと思います。人が誰でも自分の罪を理解し、神の憐れみと赦しをなによりも求めようとするなら、「礼拝」というのが次に聞くべき当然の質問です。「神の贖いを求めるために、ずっと教えられてきたようにゲリジム山に行くべきでしょうか、それともエルサレムのユダヤ人の神殿に行くべきでしょうか。」「神を礼拝するためにどこに行けばよいでしょうか。」
イエス様が彼女に与えた答えからは、色々と考えるべきことがあります。まず第一に、イエス様は彼女に、神を礼拝することについて大きな変化がまもなく来るということを伝えました。場所はもはや問題ではない。神殿についてのユダヤ人とサマリヤ人との間の敵意は終わりを迎える。神はもはやゲリジム山でもエルサレムでも礼拝を要求されないのです。第二に、イエス様は彼女に、「救いはユダヤ人から出る」とおっしゃいました。イエス様のこの言葉は、神の救い、具体的には神が約束された救い主がユダヤ人の中から出るということを意味しているのだと思います。だからこそ、イエス様について、旧約聖書から学ばないといけないのです。もしかするとイエス様は、イザヤ書やゼカリヤ書などの預言書や、詩篇などの、やがて来る救い主、メシヤについて多く書かれているような箇所を彼女に示したのかもしれません。神の御前に回復され、忠実な神の娘として仕えるには、旧約聖書が彼女に示す救いの道を辿らなければならないのです。第三に、イエス様は、真実な礼拝は場所や人種によらず、むしろ礼拝をする人の心の状態にあると言います。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます(v23)」とイエス様はおっしゃいました。これらの言葉によって、イエス様は神を礼拝するための「人種の条件」についての疑問を取り除かれたのです。この地上の全ての家族は神への礼拝に加わることができます。彼らが一つの御霊によって一致し、神の恵みの御座への真実な道に従っていればです。第四に、イエス様は彼女にもう一つの重要なことを23節でおっしゃっています。「父はこのような人々を礼拝者として求めておられる」神はご自身を霊とまことによって礼拝する民を求めておられるのです。私たちの礼拝の方法は神にとって重要です。神様は一つの特定の方法で、御前に来ることを望んでおられます。聖霊によって心が支配され、神と人への愛に満たされ、人間としてのプライドが砕かれた状態です。そしてまことによる礼拝とは、礼拝が聖なる行為であり、最上の敬意が払われなければならないということです。礼拝の中で私たちは神に近づきます。サマリヤ人の女性が、どのようにして神の臨在に入ることができるかをイエス様から聞いた時、彼女はイエス様の教えの権威と深さに感心したことだろうとおもいます。女性は申命記18:15の偉大な約束を思い起こしたかもしれません。ここで神はモーセに、神はやがて神の民を導くためにモーセのような預言者を起こされるとおっしゃいました。この預言者イエスはその約束された預言者ではないでしょうか。このお方は約束されたメシヤではないでしょうか。だからこそ、彼女はこう言いました。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」 そしてイエスは答えられました 「あなたと話しているこのわたしがそれです。」イエス様は彼ご自身がキリストであり、約束された「モーセのような預言者」であり、神の民の救い主であると宣言されたのです。従って、彼女は、もし神の御前に回復させられ、礼拝したいのなら、まず、このイエス様をキリストとして認めなければなりません。そうすれば、キリストを通して大胆に恵みの御坐に近づくことができるのです。    

IV. CONCLUSION 結論

今日の結論として、単純に強調したいことがあります。それは、真の伝道とは、福音を聞き、受け入れる者全ての人生に、重要な変化をもたらすものであるということです。正しい伝道の最初の結果は、真の悔い改めと、神を礼拝する時の新しい態度です。ヨハネ4章のサマリヤ人の女性は、キリストの希望と挑戦のメッセージに応答しました。そして彼女が聞いた良い知らせによって変えられたのです。福音があなたの人生をどう変えたのかを思い出しましょう。神の憐れみは素晴らしいものです。「私たちが滅びうせなかったのは、 【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。」(哀歌3:22-23)私たちは神の栄光をしっかりと見なければなりません。私たちはこの天と地を造られた造り主を礼拝し、造り主に仕えています。しかし神の御業の中でなによりもすばらしいのは、憐れみの御業です。神様が愛する独り子を、あなたを救うためにお与えになったことを考える時、驚きに心が満たされないでしょうか。

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