長老から選ばれた夫人へ

KASUMIGAOKA 2017/05/14
SERMON: 「長老から選ばれた夫人へ」 “The Elder to the Elect Lady”  
TEXT: II John 1-13

I. INTRODUCTION イントロダクション

聖書を読むのは、推理小説を読むようなときがあります。手がかりを集めて謎を解くのです。このヨハネの手紙第2では、その謎とは「誰がこの手紙を書いたのか?」「宛先は誰なのか?」「どうしてこの手紙が書かれたのか?」、などです。この短い手紙が私たちに何を教えているかを見ていく前に、これらの質問について考えていましょう。「誰がこの手紙を書いたのか?」「宛先は誰なのか?」「どうしてこの手紙が書かれたのか?」これらについて私たちはどのような証拠を見つけることができるでしょうか。    

II. CLUES ABOUT THE AUTHOR AND THE RECIPIENT OF THIS LETTER   
     この手紙の著者と宛先に関する手がかり

   この手紙は現存する最古の写本において「ヨハネの手紙第2」と呼ばれています。しかしこの手紙自体には著者の名前は明らかにされていません。この手紙の著者は、自分のことを単に「長老」と1節で紹介しています。彼はよく知られており、尊敬されていた人物であったようで、それ以上の紹介を必要としなかったのです。もし使徒ヨハネがこの手紙を書いたのであれば、彼が自分のことを単に「長老」と呼ぶことに驚く人がいるかもしれません。しかし、私たちは、キリスト教会の長老が当初からとても尊敬されていたことを知っています。使徒ペテロは第1ペテロ5:1で教会の長老たちに対して自分のことを「同じく長老のひとり」と表現しています。語彙や文体や内容を比較するなら、第1ヨハネと第2ヨハネの間の類似性は明らかです。ヨハネは真理について、愛について、そしてクリスチャンの交わりについて、さらに惑わす者の危険について第1ヨハネで書いています。そして第二ヨハネの「長老」は同じテーマについて手紙を書いています。されに、第2ヨハネの時代背景は第1ヨハネの時代とほとんど一致しているようです。例えば、どちらの手紙も教会から世に出ていった、特定の「惑わす者」について警告しています。彼らは真のクリスチャンではなかったため、教会から出ていきました。実際、彼らは「反キリスト」の霊に従い、イエス・キリストが人として来られたことを否定することで福音の真理を捻じ曲げたのです(7節)。この「惑わす者」の存在と、彼らが広めていた偽りの教えからみて、二つの手紙はだいたい同じ時期に、おそらく同じ人物によって書かれたと考えられます。第1ヨハネが使徒ヨハネによって書かれたというのはほとんど疑う余地がないことですから、私はこの「第2ヨハネ」も使徒ヨハネによって書かれたと結論づけます。それでは、ヨハネは誰にこの手紙を書き送ったのでしょうか。

1世紀に書かれた他の多くの手紙と同じく、この手紙も最初に宛先が書かれています。「選ばれた夫人とその子どもたちへ(1節)」この夫人の名前は書かれていません。「選ばれた」という意味のギリシャ語の「エレクタ」という言葉を夫人の名前と理解しない限りです。実際ヒエロニムスは、彼が翻訳したラテン語のヴルガタ訳聖書の中でこの言葉を夫人の名前と取っています。しかし、ヨハネはこの手紙の結びで最後の挨拶として「選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、 あなたによろしくと言っています。」と書いています。もし「選ばれた」というのが1節では個人の名前であるなら、13節でもそのように扱われるべきではないでしょうか。しかしそうすると、二人の姉妹が同じ「エレクタ」名前をもっていることになります。それよりも、むしろ冒頭を「選ばれた夫人」、そして最後を「選ばれた姉妹」と訳したほうが合理的に思えます。
それでは、この「選ばれた夫人」や「その子どもたち」とは誰なのでしょか。この「選ばれた夫人」という表現で、ヨハネが「教会」を表しているという、いくつかの手がかりがあります。新約聖書の中で、「選ばれた」という表現はしばしばキリスト教会を表す言葉として用いられています。第1ペテロ1:2で、使徒ペテロは手紙を次のように書き出しています。「父なる神の予知に従い、 …選ばれた人々へ。」さらに、新約聖書の記者たちは、教会を女性もしくは「花嫁」と表現することをよくしました(例えば黙示録19:7-9; 21:2)。ペテロは第一の手紙の結びで、ローマの教会に対してヨハネと同じような言葉で挨拶をしています。「バビロンにいる、 あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。」この証拠に基づけば、教会は神の「選ばれた」ものであり、よく「女性」と表現されます。この理由で、ヨハネもまた手紙の最後を「選ばれたあなたの姉妹の子どもたち(13節)」からの挨拶で結んでいるのです。「選ばれたあなたの姉妹」とは、ヨハネが牧会をしていた教会のことなのでしょう。

ヨハネがこの手紙を教会に書き送っているというもう一つの証拠は5節に記されています。この節でヨハネは「夫人」に、私たちがはじめから持っていた命令、つまり互いに愛し合うことを守るように促しています。「長老」であるヨハネは、主イエス・キリストにある教会への自分の愛を誓い、教会がその命令をくださった主への忠実にもとづき、その愛を返すように求めているのです。これで証拠は充分にあると思います。この手紙は使徒ヨハネが、彼の指導をよく知り、尊敬していた教会に対して書いた手紙なのです。それでは、どうしてヨハネはこの手紙を書いたのでしょうか。このことを次に考えなければなりません。    

III. JOHN’S EXHORTATION: CONTINUE “WALKING IN TRUTH AND LOVE” (vv. 1-6)
   ヨハネの勧告:真理と愛のうちに歩み続けなさい(1-6節)

このヨハネの短い手紙の中でひときわ際立つ二つの言葉があります。それは「真理」と「愛」です。ヨハネはこの手紙で、教会が「惑わす者」によって欺かれることがなく、クリスチャンの交わりのきずなを保つように促しています。このクリスチャンの一致のきずなは、啓示された神の真理と、互いに愛し合いなさいという神の命令に従うことによっています。共に持っている真理と愛こそがクリスチャンの一致の頑丈な柱なのです。これらについてヨハネがどう言っているか、見ていきましょう。

A. TRUTH 真理

ヨハネは「真理」という言葉を1-4節で5回用いています。1節ではヨハネは教会に言及して、「選ばれた夫人とその子どもたちへ。 私はあなたがたをほんとうに(別の訳で「真理において」)愛しています。」ヨハネのクリスチャンとしての愛は、彼らの真理への一致した告白にもとづいていました。そして「真理を知っている人々」がクリスチャンの愛のきずなによって彼らに加わります。「私だけでなく、 真理を知っている人々がみな、 そうです。(1節)」そして、彼らの愛が「真理」という基礎に立つからこそ、彼らのクリスチャンの愛のきずなは、耐え忍ぶとヨハネは言うのです。2節。「真理はいつまでも私たちとともにあります。」真理は変わることがないのです。人は変わるかもしれません。実際、かつてキリストの教会の交わりに属していたものたちが、惑わされて、教会の交わりから去りました。人は真理から迷い出るかもしれません。しかし、真理そのものは決して揺らぐことがないのです。変わることがないのです。真理は全ての人間関係における唯一の堅い基礎なのです。

それでは、長老ヨハネが書いている「真理」とはなんのことなのでしょうか。ヨハネの福音書17:17で主イエスは御父に向かって、この世の教会のために祈っています。「真理によって彼らを聖め別ってください。 あなたのみことばは真理です。」みことばに従うことで、神の民は変えられなければ、「聖め別たれなければ」ならないのです。神の民は、みことばにより厳密に従うようになっていくことで、霊的に成長していきます。この世の傾向は、人間の行動を、その場の状況や便宜、一般的な意見や社会のトレンドによって変えようとします。多くの人は神が私たちに啓示された真理を知り、それに従うことよりも、自分自身の個人的な快適さや安心を気にかけます。しかし、短期的な「利益」、例えば快適さや利便性、富や名声を得るために神の変わることのない永遠の真理を捨てるのは、壊滅的な誤りです。ヨハネ18:37のイエス様とローマの総督ピラトとの間の短い会話の中では、示された真理に対する2つの正反対の態度を見ることができます。「イエスは答えられた。『わたしが王であることは、 あなたが言うとおりです。 わたしは、 真理のあかしをするために生まれ、 このことのために世に来たのです。 真理に属する者はみな、 わたしの声に聞き従います。』ピラトはイエスに言った。 『真理とは何ですか。』」ピラトにとって「真理」とは実際に意味や価値のない、単なる抽象的な概念にすぎませんでした。しかしイエス様にとっては、神の御言葉という真理は人間の存在の最も重要な中心だったのです。神の真理に従って生きていない人々は人生をムダにしているのです。イエス様がこの世に来られた理由は、「真理のあかしをするために」でした。イエス様は人気のある意見に従われませんでした。イエス様は人間の作った全ての規則に従われませんでしたし、利便性を優先する道に進まれませんでした。反対に、イエス様は神のみことばの真理を否定するより、むしろ進んで死を選ばれたのでした。

神のみことばの真理は私たち一人一人にとって決定的に重要です。第2ヨハネの3節でヨハネはこう言います。「真理と愛のうちに、 父なる神と御父の御子イエス・キリストからの恵みとあわれみと平安は、 私たちとともにあります。」神の恵みとあわれみと平安、すなわち神のまったき祝福は、神の真理と愛の基準に従って生きる者に注がれるのです。神が啓示された真理を知ることを求め、その真理に従って歩むことが、今の命と後に来る命における祝福の道なのです。神がその民にお求めになることがこれです。「あなたがたが心の霊において新しくされ、 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、 新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:23-23)」そしてこれが、4節でヨハネが、教会が真理のうちを歩んでいるのを見て、非常に喜んでいる理由なのです。    

B. LOVE 愛

ヨハネが強調しているクリスチャンの一致のための二番目の偉大な柱が「クリスチャンの愛」です。彼自身が1節で言っているように、「愛」こそが教会と長老ヨハネを結びつける物なのです。ここで注意していただきたいのは、ヨハネが手紙を送っているのは、彼自身の教会ではなく、また別の教会に対してだということです。長老ヨハネが大きな愛情でこの教会に挨拶を送っているにもかかわらずです。「長老から、 選ばれた夫人とその子どもたちへ。 私はあなたがたをほんとうに愛しています。」クリスチャンの「真理にもとづく愛」は全ての信じる者を結びつけます。主によってどこに置かれているかにかかわらずです。私たちに互いに愛するように教えるものは、キリストの愛です。この理由で、クリスチャンの愛は、この神を信じない世の中で私たちが見るかもしれない「愛」とは異なるものなのです。私たちはクリスチャンとしての愛を神様ご自身から学びます。クリスチャンの愛についての第1コリント13章の説明を覚えているでしょうか。「愛は寛容であり、 愛は親切です。 また人をねたみません。 愛は自慢せず、 高慢になりません。 礼儀に反することをせず、 自分の利益を求めず、 怒らず、 人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。」(1コリント13:4-6)クリスチャンの愛は「自分自身」に注目しません。その代わりに、父なる神と御子イエス・キリストから来る「恵みとあわれみと平安」を求める愛です(3節)。この愛こそが長老ヨハネが教会の中でほめている愛です。この愛こそが、イエス様が弟子たちに互いに示すように教えられた愛です。イエス様が彼らにまず神の愛を示されたようにです。だから長老ヨハネは6節でこういうのです。「愛とは、 御父の命令に従って歩むことであり、 命令とは、 あなたがたが初めから聞いているとおり、 愛のうちを歩むことです。」ヨハネは、クリスチャンを一致させる愛が、単なる言葉上の表明ではなく、生き方であるということを強調しています。愛とは、神の命令に従いながら、互いを取り扱うべき手段なのです。私たちが他のクリスチャンを愛していることを示すのは、単なる言葉ではなく、私たちの「歩み」なのです。

ヨハネはこの手紙を受け取る人の感情にとても注意を払っています。ヨハネはある人達が教会の交わりを捨てて「惑わす者」に従ったことを知っていましたが、彼らの過去の過ちや愛不足を非難するのではなく、互いを愛し続けるように促しています。5-6節のギリシャ語の時制を見るとこのことが分かります。ヨハネの勧告はパウロがテサロニケの教会に書き送った内容と似ています。1テサロニケ4:9-10でパウロはこう言います。「兄弟愛については、 何も書き送る必要がありません。 あなたがたこそ、 互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、 あなたがたはそれを実行しています。 しかし、 兄弟たち。 あなたがたにお勧めします。 どうか、 さらにますますそうであってください。」ヨハネは長老として、乱暴で疑り深いような批判を避けるように注意しています。その代わりに、ヨハネは愛する教会に、いままで教わってきたように「愛のうちに歩み続けなさい。」「真理をかたく持ち続けなさい」と励ましているのです。これは、賢明で神に忠実な長老のしるしです。しかしヨハネは真実な聖書の教えに反する者たちへの挑戦の姿勢を忘れてはいませんでした。教会に対して真理と愛のうちを歩み続けるように励ました後に、彼は警告の言葉を書きます。   

IV. WARNING AGAINST ASSOCIATING WITH DECEIVERS (vv. 7-11)
    惑わす者と交わることに関する警告

ヨハネが教会に真理と愛のうちに歩むように励ました理由は、多くがそうしていなかったからでしょう。ヨハネは、「悪いもの」の力がキリストの教会の調和を惑わし、乱すことを理解していました。ヨハネが愛した教会は、教理的な混乱によって特に傷つけられてきました。ヨハネは7節でこう言います。「なぜお願いするかと言えば、 人を惑わす者、 すなわち、 イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。 こういう者は惑わす者であり、 反キリストです。」ヨハネはイエス・キリストの個人的な友であり、弟子でした。ヨハネはイエス様がまさに人間であったことを知っていました。イエス様は他の人間と同じように疲れ、お腹をすかせ、喉が渇くこともありました。イエス様もまた他の人間と同じように休息や睡眠、トイレも必要だったでしょう。ヨハネはイエス様が鞭打たれたときに血を流すのを見、苦しみの中で主の呻き声を聞きました。ヨハネはイエス様が十字架上で死なれたのを見たのです。ヨハネにとって、キリストが本当の人間として人となって来られたのではないという人は馬鹿げていると思ったでしょう。イエス様は人となって、真の人間として来られ、その人間の命を「多くの人のための、 贖いの代価として」与えたのです。もしこの根本的な真理を拒否する者がいれば、その者はキリストの言葉と御業を拒否しているのです。しかし、かつて教会の交わりに属していながら、このキリストの教えを捨てた者たちがいました。彼らは世に出ていき、他の人を惑わし始めたのです。このような人々や教えには反対しなければなりません。それではどのようにして彼らに抵抗すればよいのでしょうか。

まずヨハネは「よく気をつけて」と書いています。実は原語のギリシャ語によれば、ヨハネは「自分自身に気を配りなさい」と言いました。自分の心、自分の信仰の純粋さを確かめるべきです。聖書の教え、すなわちキリストと彼の派遣された使徒たちの教えに堅く立ちましょう。永遠のいのちの希望は、神のご計画と約束にもとづいて成し遂げられたキリストの御業によっているのです。福音の真理を手放してはいけません。あなたが何を信じているか。なぜ信じているかを理解しましょう。 第二に、行き過ぎて、聖書が言っていることに付け加えないようにしなさいとヨハネは言っています。神が御言葉によって啓示されている真理で満足しましょう。「だれでも行き過ぎをして、 キリストの教えのうちにとどまらない者は、 神を持っていません。 その教えのうちにとどまっている者は、 御父をも御子をも持っています。」神が隠されていることを知ろうとしてはいけません。

第三に、ヨハネはこう書いています。「あなたがたのところに来る人で、 この教えを持って来ない者は、 家に受け入れてはいけません。 その人にあいさつのことばをかけてもいけません。 そういう人にあいさつすれば、 その悪い行いをともにすることになります。」なぜ私たちは、真理を捨てた「惑わす者」と交わりを持ってはいけないのでしょうか。なぜなら、彼らと関わることで、自分自身がつまずくか、他の誰かを惑わす者のわなにつまずかせることになるからです。彼らは無害な、福音を聞く必要のある遊女や取税人のような「普通の罪人」ではありません。彼らは反キリストに仕える、惑わす者なのです。ヨハネがここで考えている人は、当時に旅回りの教師なのでしょう。クリスチャンは旅人を親切にもてなすように教えられますが、惑わす者であれば、もてなしてはいけません。なぜなら、彼らは救い主を知らないのではなく、積極的に逆らう者です。だからこそ彼らは避けるべきであり、教会から追い出すべきなのです。通常、彼らはクリスチャンの家庭に受け入れられるべきでもありません。彼らに暖かく挨拶をすることは、彼らに同意している、もしくは彼らの惑わす働きに協力しているような印象を与えるかも知れません。ですから、彼らを避けるべきなのです。私はエホバの証人のようなカルトの人たちに対して多くの時間を使って話してきましたが、ヨハネの警告に従って、これからは彼らを避けようと思っています。彼らの教えは基本的に惑わす物であり、聖書のみことばを捻じ曲げるものだからです。   

V. CONCLUSION  結論

説教の結論に、今日の箇所のヨハネの主題を忘れないでおきたいと思います。それは、キリストの教会の交わりは、まず真理と愛によって維持されるということです。私たちは神の家に留まる限り安全です。パウロが1テモテ3:15で書いているとおりです。「神の家とは生ける神の教会のことであり、 その教会は、 真理の柱また土台です。」16世紀のヨーロッパという暗黒の時代の中に、神は「sola Scriptura(聖書のみ)」の原理の必要性を叫ぶマルティン・ルターやジョン・カルヴァンのような人物を起こされました。神の恵みによって彼らは多くの人を神の御言葉の真理へと立ち返らせました。教会は注意深くその真理を守り、神の御言葉から行き過ぎないようにしないといけません。神の御言葉は真理です。宣べ伝える言葉が本当に神の御言葉である時のみ、教会は強く立つのです。

しかし、もし教会にたび重なる論争や、短気や、自己中心的なプライドがあると、正しい教えすら教会を一致させることはできません。このような態度は愛を欠くものです。私たちは親切と恵みをもって特に教会の兄弟姉妹との交わりを大切に守らないといけません。他の人の誤りを指摘する時すらもです。教会の一致と健康を保つためには、正しい教理と同じように愛も重要なのです。

この手紙を終わるにあたり、アウグスティヌスの言葉が思い浮かびます。彼はこう言いました。「教会を自分の母とできない者は、神を自分の父とすることはできない。」今日の母の日に私たちの母親について神に感謝するとともに、このすばらしい手紙の中の「選ばれた夫人」のこともまた覚えましょう。教会の子どもとして私たちは愛する教会のために祈りつつ、感謝しましょう。

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