KASUMIGAOKA 2017/2/5
SERMON: 「分裂された社会のための救済」
“The Cure for a Divided World”
TEXT: ヨハネの手紙第一1章1-10節
I. INTRODUCTION:
テレビニュース放送を見れば、世界中どこに行っても、社会が分裂していることが分かります。一つの国民であっても、色々な宗教、政治党派、人種上のグループなどに分裂しているようです。どこを見ても、争い、党派心、ねたみ、分派や憤りがよく見えます。こんなに分割した世界は、平和を保つことができません。却って、社会が分裂した状態で党派心が固くなって、暴力の行為も起こっています。こう言うわけで、現在、テロ行為、内戦、宗教上の暴力、人種暴動などがよく見えます。私の母国アメリカで、大統領の選挙が終わっても、激しい政治的な戦いが続いています。アメリカの場合は、保守主義者の意見と進歩主義者の意見は、正反対になったので、国会でどんな件を話し合っても、一致もせず、協力もほとんどできなくなったのです。¬民主党と共和党は、妥協せずに、いつも互いに戦い合っているようです。こんなに分割した社会は、いったいどのように和解させて、一つにすることができるのでしょうか。
今日の聖書個所において、神様の聖霊は分裂した世界に、平和をを回復する方法を示してくださいます。この手紙の1章3節でヨハネは聖霊によってこう言っています。「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。」ヨハネがこの手紙で伝えていることは、キリスト教の交わりへのお招きです。ヨハネの勧めに従う者はだれでも、親しい交わりに入り、違う党派の人たちや異なった意見を持つ者とも和解させられ、平和を持つことが出来るようになります。この交わりに迎えられた人々はみな、急にすべての意見に関して、一致するという意味ではありません。しかし、この交わりに入れられた者はみな、意見が違っても、忍耐をもって、神様の御導きを求めるはずです。そして、敵ではなく味方として、互いに励まし合ったり、助け合ったりして、社会的な問題を取り扱って、解決策を検討し、解決に至るまで協力することができるはずです。ヨハネが勧めているのは、社会的な統一への必要な一歩ではないかと思います。この解決を採用すれば、今まで抱いた意見、思い、計画をそのままで保つことができないでしょう。なぜなら、キリスト教会との交わりに入れられたのなら、他の人々との交わりだけではなく、生ける神様との交わりです。ヨハネが3節の後半で言っている通り、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」この交わり、すなわち神様との平和のうちに、あらゆる社会的な分裂の救済が見つかります。その分裂の救済法として、ヨハネが次の三つのことを勧めています。まず、第一に、党派心による怒りをなだめて、社会の分裂を直すために、人々は創造主なる神様と和解させられるべきです。神様との交わりに受け入れられなければなりません。それに、第二に、神様との交わりに入り、その交わりにとどまるために、神様の光の中を歩まなければなりません。第三に、神様との交わりに受け入れられるために、自分の罪を告白しなければなりません。すなわち、社会の分裂を直すために、人々はまず自分の罪を自覚して、その罪を真面目に取り扱うべきです。この三つのことをもう少し考えて行きたいと思います。
II. GOD’S HELP FOR A DIVIDED WORLD
A. 社会の分裂を直すためにまず、神様との平和を求めるべきです。ヨハネがこの手紙の中で伝えるのは、「あなたがたも私たちと交わり[あるいは平和]を持つようになるため」だと言っています(v.3)。それなら、なぜ1—4節で神様に出会った経験を中心としたでしょうか。なぜ、人との交わりが神様を知ることにかかっているのでしょうか。でも、確かに、ヨハネがこの1—4節で主張しているのはその事実です。「初めからあったもの」、「いのちのことばについて」、つまり「御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのち」を伝えています。ヨハネがここで言っている言葉と、ヨハネの福音書の前書きのことばと比べれば、イエス・キリストのことを伝えていることが明らかです。「初めに、ことばがあった。言葉は神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」とヨハネの福音書 1:1—2に書いてありますね。それに、その福音書1:14で、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と書きました。ヨハネが主張しているのは、この方、つまり真の神様を知ることによって、ヨハネとほかのクリスチャンとの親しい交わりに与ることができるということです。この驚くべき主張について三つのことに注目したいと思います。
まず、ヨハネが自分自身の体験について証しています。その体験により、ヨハネの心が全く改まったと言っています。イエス・キリストに出会うことによって、ヨハネは根本的に変えられました。その個人的な経験は、「回心」と呼ばれています。ヨハネはその時、霊的に「生まれ変わりました。」ヨハネが理解してほしいことは、神様と人間との親しい交わりに入るために、自分の心が変わらなければならないということです。自分の決心だけではなく、神様の聖霊の力強い働きによる根本的な変化が必要です。聖霊によって新しく生まれなければ、人は、「神の国に入ることができません。」(Jn. 3:5)ここに大切な真実があります。それは、社会的な分裂を直して、平和を造って、他の人々との良い交わりを持つために、人々はまず個人的に生まれ変わらなければならないということです。社会的な分裂を直すために、国家の法律、裁判官の判決、軍事的な力、社会的な運動などは皆、むなしいです。生まれつきの心をもつ者は、自分勝手な意見や思いをいつも優先すべきと思って、利己主義の束縛から自分を解放させることができないからです。こういうわけで、他の人々をひとりひとり神様との平和ある交わりに入るように導かなければなりません。それは、ヨハネの目的です。
それに、注目したい第二のことは、ヨハネが勧めている回心が何か主観的な経験に基づいたものではないということです。本当の回心としっかりした信仰は、普遍的な真実を根拠としなくてはいけません。この点について考えてみてください。ヨハネは自分の体験について証していました。「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」の証でした。でも、それはヨハネの私的な幻のような「精神的経験」だけではありませんでした。ヨハネは大勢の人々とともに、イエス・キリストの奇跡的なわざを見ました。ほかの弟子たちとともに主の驚くべき話を聞きました。ほかの目撃者と同様に主の復活について証しました。つまり、ヨハネが証したのは、ひとりの精神的な経験ではありませんでした。キリスト者の信仰は、初めから立証できる事実に基づいたのです。だから、多くの人々は、ヨハネとほかの多くの目撃者の証言のゆえに、三位一体なる神様を信じて、昔の信者たちと同じように神様と和解させられ、神様との交わりに与るようになりました。代々に渡って、クリスチャンたちは、ヨハネと同じような救いの経験をもって、真の神様のあわれみとその赦しを得て、神様とほかの信者たちとの親しい交わりに迎えられたのです。これはヨハネの主張に注目したい第二の点です。
それに、第三に、神様との交わりに入るために、まず主イエス・キリストを知らなければならないということです。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」と3節の後半で言っています。ヨハネの福音書1:14節を調べてみると、次のように書いてあります。神である「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひどり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」神様がどのような存在であられるかを知るために、父なる神様がこの世に遣わされた御子イエス・キリストを知らなければなりません。ヨハネの福音書1:18を読むと、御子キリストが御父との最も親しい交わりの中から、私たちに神様を啓示するために遣わされたことが分かります。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」人間の目に見えない、真の神様を知るために、イエス・キリストをまず知るようにならなくてはなりません。また、ヨハネの福音書14:8—9にはこう書いてあります。主イエスの弟子たちのひとりである「ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエスは彼に言われた。『ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうして、あなたは、「私たちに父を見せてください」』と言うのですか。」神様との交わりに入りたいと思う者はだれでも、父なる神様が送ってくださった御子イエス・キリストをまず認めて、そして、へブル人への手紙1:3に書いてあるように「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって、万物を保っておられる」ということを告白しなければなりません。この主イエス・キリストは、神様との親しい交わりの中に私たちを導き入れてくださるように、この堕落して、分裂した世界に遣わされました。このキリストを知ることによって、私たちは神様との交わりに受け入れられるのです。このキリストについてコロサイ人への手紙1:19-20にこう書いてあります。「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」だから、御子イエス・キリストを知り、キリストに従い、キリストとともに歩む者は、神様との親しい交わりを喜ぶのなら、他の人々との交わりを持つのは、もちろんのことでしょう。
つまり、キリストにあって、人々の間の仕切りは取り去られ、社会のあらゆる分裂は直されます。昔は、最も厳しくて固い社会的な仕切りはユダヤ人と異邦人の間にありました。しかし、主イエス・キリストによってその仕切りも取り去られたのです。エペソ書2:13—17で使徒パウロこう言います。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。』続いて、19節に、「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」と書いてあります。キリストを信じることによって、神様と和解させられたユダヤ人も異邦人も、一つのからだ、同じ国民と、一つの家族にされました。そのように和解させられた人たちは、何と喜ばしい交わりの中に迎えられたでしょう。
今日、ヨハネの第一の手紙1章を全部見て行こうと思いましたが、ただ最初の1-4節までできました。
それでは、一つの長い解き明かしの代わりに、二つの短い説教に分けて、来週もまた、この最初の1章を見てみましょう。
III. CONCLUSION
さて、結論として、社会の分裂を直して平和をつくるために、聖書が勧めている救済法は、ある意味で簡単ではありません。社会的な運動によって、または力ある支配者によって、他の人々に押し付ける制度ではありません。すべての人々をひとりずつ神様との交わりに入るように味方にしなければなりません。ひとりひとり、人の心が神様の聖霊の力によって回心させられるべきです。そうでないと、平和は永く保つことができません。そうでないと、平和が世界中のすべての民族を含めないでしょう。やはり、世界中のあらゆる社会的な分裂を直すために、このような救済法は、あまり能率的ではないように見えます。しかし、全能の神様の力と知恵にかかっていますので、この方法のみ確実です。この世のあらゆる民、あらゆる人種、あらゆる経済的段階の人々を一つの平和、一つの交わりに入ることができるように、贖い主なるキリスト・イエスは、「平和の君」としてこの世に送られたのです。この方を信じて、従う人々はみんな、一つのすばらしい交わりに迎えられます。
現在、社会の分裂は深くて多いでしょう。しかし、今の分裂は、むかしの異邦人とユダヤ人の間の分裂よりも、しつこいとは思いません。キリストにあって、異邦人もユダヤ人も主イエスの平和に迎えられました。キリストにあって、人間の社会を分裂したあらゆる仕切りが取り去られます。ガラテヤ人への手紙3:28に書いてあるとおりです。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」私たちも、霞ヶ丘教会として、このすばらしい希望を持って、主イエスによる平和のメッセージをますます広めようとしましょう。