KASUMIGAOKA 2017/1/8
SERMON: 「エフタの誓願」 “Jephtha’s Vow”
TEXT: Judges 11:1-12, 29-40
I. INTRODUCTION: Jephtha’s Dilemma
数週間前に今日の聖書個所について教会の方に質問されました。いつか安息日の礼拝において、この箇所を解き明かしてみようと思いました 。今日、このみことばを考えて行きたいと思います。もし皆さんの中で、だれかが、質問があって、解き明かして欲しい聖書個所があれば、ぜひおっしゃってください。すぐ出来なくても、「いつか」その質問を取り上げて解き明かしてみます。出来るだけ、説明しようとします。
とにかく、今日の聖書個所を読めば、どのような問題が心に浮かぶのでしょうか。大昔からエフタの話は論争を呼んでいる箇所です。士師記11章30-31節でエフタは主なる神様に次のような誓願を立てて言いました。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来ると、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」それから、34節で、「エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。」と書いてあります。喜びであるべきその帰りの日に、その前の誓願のためにエフタは大変困りました。「自分の着物を引き裂いて言った。『ああ。娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。』」わずかな二か月の猶予の終わりに、39節に書いてあるように、「父は誓った誓願どおりに彼女に行った。」しかし、こんなにひどいことを自分の娘に行ったエフタは、その信仰のために聖書の中で称賛されています。新約聖書においてもエフタの信仰がほめられているのです。たとえば、へブル人への手紙11:32でエフタは模範的な信者の例として言及されています。でも、自分の娘を殺して全焼のいけにえとして神様にささげたのなら、それは、全く非人道的な行ないではありませんか。これは、神学的な問題ですね。
今日、次の三つのことに心を留めていただきたいと思います。まず、エフタはどのような人物、どのような性質であるかということです。エフタの歴史的な背景を見てみましょう。それから、第二に、エフタの誓願の意味についての論争を考えてみたいと思います。第三に、いったいなぜエフタの悲劇的な出来事が聖書に記録されたかということを考えてみたいと思います。
II. What Kind of Man Was Jephtha? [エフタの性質について]
それでは、まず、エフタはどのような人でしたか。士師記11:1でエフタは次のように簡単に紹介されています。「ギルアデ人のエフタは勇士であった。」そして「勇士」だけではなく、エフタは生来の指導者でした。しかし、エフタは逆境に生まれて、若い時に辛い目に会ったのです。エフタは、有名なギルアデの息子でしたが、その母親は遊女でした。ギルアデの妻の子たちは成長したとき、エフタに「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。」と言って、彼を追い出したのです。だから、エフタは別の国に逃げて、自分の力と能力に頼り、何とかして生活ができました。そこで、「エフタのところに、ごろつきが集まって来て、彼といっしょに出歩いた。」と11:3に書いてあります。数年たっているうちに、エフタは仲間を訓練して、自分の私的軍隊を立てました。彼の指導者としての名声が広まって行きました。その間、イスラエル人が住んでいるギルアデの地方で、アモン人がイスラエル人に戦って、苦しめたのです。やがて、エフタに機会が与えられました。ギルアデの長老たちがエフタの所にやって来て、エフタに言いました。(v. 6)「来て、私たちの首領になってください。そしてアモン人と戦いましょう。」エフタは彼らと交渉した上で、その民の首領とされました。こういうわけで、軽蔑された者としてギルアデから追い出されたエフタは、今、ギルアデの住民全体のかしらとして故郷に連れて来られたのです。しかし、民のかしらになるための条件がありました。それは、まず、アモン人の軍隊に戦って、負かさなければならないという条件です。
エフタは有名な指導者になりましたが、それだけではありませんでした。いつか、エフタはイスラエルの主なる神様を信じるように導かれました。彼が神様を信じる信仰を持っていることは、9節、10節、と11節で証明されていると思います。たとえば、9節によると、もしアモン人に戦って勝利を得るのなら、それは、主が彼らをエフタに渡してくださるからということを知っているそうです。それに、10節で、長老たちが神様の御名によって約束すると、エフタは説得された。「主が私たちの間の証人となられます。」と言った長老たちを、エフタは結局信頼しました。神様が彼らの約束を保証してくださることを信じたからです。そして、11節によると、エフタは長老たちとの契約を正式に結ぶために、当時、主の幕屋のあるミツパに長老たちとともに行って、「主の前に」その契約の条件を繰り返して言ったそうです。エフタは、確かに主なる神様の存在をしっかりと信じて、神様の助けを真面目に求めている人でした。だから、アモン人と戦うべき時が来ると、29節に「主の霊がエフタの上に下った」と書いてあります。それは、エフタが神様の聖霊の力によって戦争に出るために整えられたという意味でしょう。エフタは、真の神様をしっかりと信じる人でした。
III. The Meaning of Jephtha’s Vow
信仰の厚いエフタは、新兵を募りながら、ギルアデとマナセの地方を通りました。集まって来た兵士を見ると、エフタはちょっと心配したようです。思ったより人数が少なかったかもしれません。戦争に出るために十分訓練も受けていない者たちだったでしょう。でも、勝利を得るのは、人の力や軍隊の人数にはかかわりません。エフタは、主なる神様に望みを置いたのです。だから、30節に書いてあるように、「エフタは主に誓願を立てました。」しかし、その誓願でエフタはいったい何を約束したのでしょうか。アモン人との戦争に出るエフタは、神様の偉大な業を求めているので、彼も偉大なささげ物を約束しなくてはならないと思ったようです。彼の約束したささげ物をよく考えてみてください。30—31節にこういう誓願が記されています。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。」もし、そこで、エフタがその約束を終えたら、何の問題にもならなかったでしょう。しかし、エフタは続いてこう言いました。「私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」この最後の言葉は、「人間のいけにえをささげる」という意味です。モーセの律法によると、ふさわしい全焼のいけにえは牛、羊、などのきよい動物です。しかし、エフタは動物のいけにえを約束しなかったみたいです。戦いから帰るエフタを迎える者は、確かに人間であるはずですね。それに、エフタは動物小屋に住んではいないでしょう。その家の戸口から出るものは、動物であるはずがないでしょう。エフタが「人間のいけにえ」をささげるように誓願したということは、紀元後の中世まで、聖書学者によって否定されませんでした。しかし、現代の学者たちは、エフタが比喩的な言葉使いで誓願したと論争しようとしました。「その者を主のものといたします。」ということばが、エフタの家の召使や奴隷のひとりを主の幕屋で祭司のしもべとして仕えるように差し上げるという意味だと主張されています。「そのものを全焼のいけにえとしてささげます。」ということばも、同じように、「主の幕屋で働く者として完全に差し上げる」という意味でしょうと思われています。サムエル記第一1:11には、これによく似ている誓願が記録されています。ハンナは子どもを産むことができなかったので、主の幕屋のところに行って、神様に向かってこう言いました。「万軍の主よ。 もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」ハンナは、エフタと同じように、神様の大きな恩恵を求めているので、「子どもの一生」を主にささげるように誓願しました。しかし、「子どもの一生」を捧げることと「全焼のいけにえとしてささげる」という二つの表現の意味は全く異なっています。「一生」ということばは、「生きている間」、すなわち、「死という限界まで」という意味です。しかし、「全焼のいけにえ」ということばは、「死んでもささげる」、「死の限界を超えてもささげる」という意味です。「全焼のいけにえ」をささげると言ったエフタは、体もいのちも惜しまずにささげると誓願しました。こういうわけで、聖書の中でどこを見ても、「全焼のいけにえ」という表現は比喩として用いられたところが見つかれません。
もし、エフタが、比喩的な意味ではなく、実際に「全焼のいけにえとしてささげる」と意図したのなら、どうしてそんなにひどいことを約束したのでしょうか。モーセの律法においては、人間の犠牲は絶対に禁じられたことです。回りの国々の民、たとえば、アモン人、エモリ人、モアブ人などは皆、人間の子どもを犠牲として祭壇の上で偶像の神々にささげたそうです。しかし、申命記12:31—32にこう書いてあります。「あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。」神様を信じているエフタは、人間の犠牲を約束したのなら、それは確かに、モーセの律法に現れた神様のみこころを知らなかったからでしょう。長年の間、エフタは偶像礼拝におぼれている民族の中に住んでいたので、彼は神様のみことばの代わりに、回りの民の習慣になれて来て、その社会の思いや考え方を思わず吸い込んでしまったでしょう。現代の人々も同じです。回りの社会の習慣や考え方、価値観などを思わず吸い込んでしまう傾向があります。神様の純粋なみことばをよく知らない人は、特にそうです。信仰のある人もそうです。だから、イエス様を信じているからと言って、聖書を毎日読んだり、瞑想したり、心に納めたり、生活に注意深く適用したりする必要がないと思ってはいけません。
しかし、もし、エフタが人間犠牲を約束しなくても、その誓願は考えられない後悔と悲しみをもたらしたのです。もし、自分の家の戸口から出て来る人を神様に完全にささげるのなら、その人は普通の人のような人生ができなくなるでしょう。他の人々のように、結婚して、子どもを産んだり、家庭生活を楽しんだりすることができなくなるでしょう。そのような家庭生活は、神様が与えてくださる祝福の一つだと聖書が言っています。詩篇に書いてあるように、「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」または、「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩者は。...あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。」(Psa. 127:3; 128:1, 3—4)たいていの人にとっては、このような幸せを失ったら、ほんとに残念です。
エフタの場合は、誓願してからすぐ、アモン人との戦いに出ました。主は敵をエフタの手に渡してくださいました。アモン人に対する大勝利を得たエフタは、喜びながら帰りました。しかし、その誓願のために、勝利の喜びはすぐ、悲惨さに変わりました。34節にこう書いてあります。「エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分娘がタンバリンを鳴らし、踊りながら、迎えに出て来ているではないか。」ぞっとしたエフタの気持ちは35節で明らかにされています。「エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。『ああ、娘よ。あなたはほんとうに,私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向って口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。』」娘が頼んだ二か月の猶予が終わると、「父は誓った誓願どおりに彼女に行った」と39節で言っています。愛する娘を誓願どおりに「全焼のいけにえ」としてささげたという意味です。でも、彼女を殺さなくても、彼女にひどいことを行ったのです。エフタも自分の誓願で苦しんでしまいました。愛する娘も、子孫が生まれる希望も、その瞬間に失ってしまいました。
IV. The Purpose of This Story in Scripture: What Does It Teach Us?
さて、エフタの話はいったいなぜ聖書に記されたのでしょうか。新約聖書のローマ書15:4にこう書いてあります。「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」すなわち、昔に聖書に書かれたこの話を呼んでよく考えることによって、私たちは、忍耐と励ましを受け、そして希望を持つことができるのです。特に次の四つのことを心に留めてみてください。
まず、第一に、聖書がここで教えている一つのことは、りっぱな勇士であるエフタのような人物さえ、罪深い人間に過ぎないということです。エフタは勇士であり、能力のある人でしたが、その才能によって、またはその戦場の勝利によって、義と認められたわけではありませんでした。彼は神様を信じる信仰によって救われました。他の旧約聖書のヒーローも同じです。ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデなどは皆、罪深い人間でした。しかし皆は自分の罪深さを自覚して、神様の救いと罪の赦しを求めたので、神様を信じる信仰によって救われたと聖書が教えています。私たちも、エフタのように、ひどい罪を犯しても、本格的な信仰をもって、主イエスにより頼むなら、必ず救われます。それは偽りのない神様の約束でございます。
第二に、神様のみこころを知らずに、自分勝手な方法で礼拝しようとすることは、危険だということです。エフタは信仰を持っていても、神様のみことばが十分分からなかったようです。神様に向かって、誓願を立てることは礼拝の行いですが、礼拝をささげる前に、どのような礼拝が神様を喜ばすかを調べるべきです。エフタの場合は、誓願する必要がなかったが、内容の誤った誓願を立てることにより、エフタは自分にも娘にも、大変悪い結果をもたらしたのです。ですから、エフタの物語から学び得ることの一つは、信者は皆、神様を礼拝する時、注意深く神様のみこころを問う必要があるということです。ただ社会の模範、すなわち回りの人々の模範に従って、神様にどのような礼拝をささげてもいいと思ってはいけません。私たちの礼拝を導くために、神様は聖書を備えてくださいました。聖書の教えによって私たちは、ふさわしい心構えで、主に喜ばれる礼拝をささげるように、主の御坐の前に導かれます。礼拝の手引きである聖書を無視して、自分勝手な方法で礼拝しようとすれば、神様を喜ばすことの代わりに、わざわいをもたらす可能性があります。ですから、忍耐をもって、神様のみことばからふさわしい礼拝が何であるかを学びましょう。
第三に、言葉によってジレンマに陥らないように気をつけなければならないということです。エフタは、戦いに出る前に祈りをささげて、神様の助けと祝福を求めた方が良かったが、彼は主に誓願を立てたのです。将来に起こることを全然知らないエフタは誓願を立てました。しかし、その結果を見ると、エフタを苦しめた者は、娘ではなく、エフタ自身だということが分かります。でも、それなのに、自分の約束を守ることは正しいでしょう。エフタは娘に言ったように、神様に口を開いたのなら、それを取り消すことはできません。しかし、彼は口を開くことによって、エフタは苦しい板挟みになってしまいました。罪を避けることができない状態でした。誓願のために苦しいジレンマになったエフタは、自分の誓願の誤りを認めて、罪として告白した方が良かったでしょう。しかし、彼は自分の約束を守るために本当にむごい罪を犯してしまいました。ある意味で、エフタは自尊心を守るために娘を犠牲にしたと言えるでしょう。でも、自尊心であるか、それとも、自慢であるかが分かりません。マタイの福音書14には、エフタの経験に似ている出来事が記されています。この際に、ヘロデ王は、気に入った女性に欲しいものを何でも与えるように約束しました。でも、その若い女性がひどいことを願いました。バプテスマのヨハネの首を求めたのです。それを聞くと、ヘロデ王は困りました。「王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。」と14:9—10に書いてあります。ヘロデ王は、ヨハネのいのちよりも、列席の人々の思いと自分の権力を重んじたようです。ヘロデ王は昔のエフタのように、自分の軽率な約束を守るために、ひどい罪を犯してしまいました。
終わりに、エフタのような板挟みにならないために、主イエス・キリストの勧告にいつも従うように注意してください。マタイの福音書5:33—37で主はこう言われました。「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」神様を信じて、神様に自分のすべてをゆだねなさい。自分が支配出来ないことについて、決して誓ってはいけません。そうです。エフタのような板挟みにならないように、主のみことばを覚えて、従いましょう。お祈りいたします。