主により頼む者の幸い

KASUMIGAOKA   2016/12/04

Sermon: 「主により頼む者の幸い」

“Blessed Is the Man Who Trusts in the Lord”

Text: Haggai 2:10-23

I. Introduction:  幸せの秘訣

ハガイ書の預言は、紀元前520年頃にイスラエル人に与えられましたが、実はどの国の人々であっても、どの時代においても、これは、日常生活に適切な、意味深いメッセージだと思います。ハガイ書のメッセージは、幸せを求める人々に、その豊かな生き方をどこで見つけることが出来るかを説明してくれるからです。先週、高木先生の説教と講演によって、人生の真の豊かさ、いわゆる「クオリテイ・オブ・ライフ」を求めることについて考えさせられました。現代の私たちも、昔の預言者ハガイの聴衆の人々と同じように、幸せの秘訣を知りたいでしょう。皆さんは、どう思われるでしょうか。どのようなものを手に入れたことにより、幸せになるのでしょうか。どのような状況に達することによって、「さあ、全く幸せになって、満足だ」と言えるでしょうか。ハガイの伝えたメッセージは、簡単に言えば、「幸せな人生が、神様の恵み深い祝福にかかる」ということです。すなわち、主により頼む者は幸いです。この真実は、詩篇の中でよく宣べられます。たとえば、詩篇1:1—2にこう書いてあります。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着(つ)かなかった、その人。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」また、詩篇128:1—2は、こう言っています。「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。あなたは、自分の手の勤労(きんろう)の実を食べるとき、幸福(こうふく)で幸せであろう。」確かに、聖書によれば、神様により頼む者は、幸いだということです。
でも、「主により頼む」というと、いったいどういう意味でしょうか。

多くの人々は、「神様を信じている」と言っても、未信者と同じように、まず自分の知恵、知識、力、能力などに頼り、自分の幸せな生活を作ろうとするのです。宗教的な義務を背負って、毎週教会に通って、その儀式などを熱心に守っても、実は、世俗的な理由でそれを守ろうとするかも知れません。たとえば、多くの人々がどのように安息日の戒めを守るかを考えてみてください。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし、七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」その命令が聖書にはっきり書いてありますが、この戒めを守ろうとする、ある人は、神様を喜ばすためではなく、自分の安楽のために、または自由時間を楽しむために安息日を守るかも知れません。そのような人は、神様の祝福を求めて、神様により頼むわけではなく、かえって、世俗的な理由で安息日を守るでしょう。バビロニア捕囚からユダに帰って来たイスラエル人のなかで、それと同じように思っている人々があったようです。宗教的な活動にあずかることにより、自分の個人的な生活も社会の生活も改善することが出来るだろうと思っていました。そのように思った人たちに対して、ハガイの三つ目の預言が宣べ伝えられたと思います。        

II. 神様が祝福される信仰  THE FAITH GOD WILL BLESS    

A. 私たちともにおられる万軍の主への信仰

それでは、今日の箇所、ハガイ書2:10—23を考えて行きましょう。ご存知のように、ハガイの主な預言的な使命は、ユダヤ人が神様の宮をエルサレムで再び建てるように奨励することでした。捕囚から帰って来たユダヤ人は、その宮をすぐ再建し始めたが、回りの国の敵対行為に会うと再建活動を中止してしまいました。十八年経っているうちに神様の神殿を建てる熱心が冷めて、ユダ人は一人一人自分の個人的な幸福、富み、栄え、安楽などだけを求めるようになりました。預言者ハガイは、そのユダヤ人に神様のみことばを宣べ伝えたのです。「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。...この宮が廃墟となっているのに、あなたがたが板張りの家に住むべき時であろうか。」それに、ハガイは言いました。「万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。主は仰せられる。」ハガイは、続けてそのようなメッセージを三週間伝えたのです。それから、「主の宮に行って、仕事に取りかかった」と1:14に書いてあります。それは、ハガイに与えられた主の最初の預言でした。

二章の前半には、主の二つ目の預言です。その時、宮の再建の働きが一か月間続いていたが、その建築の進歩を見れば、みんなはがっかりしたようです。以前の神殿の栄光に全然達することになりえないとみんなが思っていました。でも彼らは本当に神様のご栄光のために建てているのでしょうか。その時、神様の励ましのことばは、ハガイを通してユダヤ人に与えられました。「強くあれ。―—主の御告げ――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。」それに、「わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。」すなわち、彼らの働きは無駄ではありません。もし自分の名声を上げるためにやろうとすれば、その働きは無駄です。どんなに立派な宮が出来ても。神様が命じられた仕事に忠実に取りかかるのなら、神様だけ喜ばすために努力すれば、その働きはむなしくないという意味です。神様の御国のための仕事を見て、成功の見込みがないからと言っても、それでやんではいけません。なぜでしょうか。それは、その仕事の結果は神様がお定めになるからです。万軍の主なる神様のみこころを行なうなら、その結果を神様に委ねることが出来るのです。神様のご栄光を現すために仕事にかかる者は、仕事が成功になるかどうかと言う問題を神様に任せます。神様の栄光を現すためにその宮の建築の仕事に励んでいるユダヤ人は、心配する必要はありません。なぜなら、2:9に書いてありますように、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。―—万軍の主の御告げ――」      

B. 信仰への励まし

それから、ハガイを通して与えられる主の三つ目の預言は2:10から始まります。この預言は、確かに、努力しているユダヤ人に励ましを与えるでしょう。しかし、一目見れば、全く逆に思うかも知れません。11—14節は祭司たちに尋ねるべき律法の解釈についての問題を含めているようです。「万軍の主はこう仰せられる。次の律法について、祭司たちに尋ねて言え。もし人が聖なる肉を自分の着物のすそで運ぶとき、そのすそがパンや煮物、ぶどう酒や油、またどんな食物にでも触れたなら、それは聖なるものとなるか。」こんな質問は宮を建てる仕事と、いったい、どういう関係があるでしょうか。私はこう考えて来ました。聖なる肉は、神様にささげたいけにえの肉でしょう。ユダヤ人が建てている宮も、同じように、神様にささげたものなのです。もし聖なる肉の触れたものが聖なるものとなったら、神様の宮によってエルサレムとその住民はきよめられ、聖なるものとなるでしょう。でも、祭司たちは、その質問に答えて、「否」と言いました。ただ、聖なるものに触れることだけで、他のものはきよめられません。それから、ハガイはもう一つの問題を上げて言いました。「もし死体によって汚れた人が、これらのどれにでも触れたなら、それは汚れるか。」今回、祭司たちは答えて、「汚れる」と言いました。というのは、きよさは簡単に移らないけど、汚れはすぐ病気のように移ると祭司たちが答えたのです。その答えを聞くと、ハガイはいいました。「わたしにとっては、この民はそのようなものだ。この国もそのようである。―—主の御告げ――彼らの手で作ったすべての物もそのようだ。彼らがそこにささげる物、それは汚れている。」

このことばを聞いたユダヤ人は、どう思ったのでしょうか。この国に帰って来た民は、まだ「汚れている」と神様は、はっきり言われました。昔から、神様の選ばれたシオンという所は、聖なる山と呼ばれました。エルサレムはその山の上に建てられたのです。しかし、ユダヤ人がバビロン捕囚からその聖なる所に戻って、そこで神様の宮を建てても、彼らはそこに滞在することによってきよめられ、聖なるものとされるわけではありません。そして、この民はまだ汚れているのなら、どうやっても、神様の神殿を見事に建てても、彼らが作る物、建てる物がすべて汚れてしまいます。すなわち、ハガイの預言は、ユダヤ人が献身な働きによって、自分をきよめることが出来ないという意味です。だれも、努力によって自分をきよめて、救うことが出来ません。それに、汚れた民が建てた汚れた宮に、いけにえをささげるなら、そのいけにえも汚れているとハガイが14節で言いました。この預言の言葉の中で、励ましは、どこに見えるのでしょうか。しかし、ハガイの預言は、まだ済んでいません。

15—19節において、ハガイは、ユダヤ人がエルサレムの宮の仕事にかかる前の現状を思い起こすのです。15節の原語を調べると、日本語の「後」より、「前」と訳した方がいいと思います。ハガイは、ユダヤ人が宮を建て始める前の現状を思い出してほしいようです。以前は、どうやってもその農場の働きは栄えませんでした。麦でも、ぶどうでも、豊作を期待していたが、数年間続けて日照りが起こって収穫は少なかったのです。それは、なぜでしょうか。その答えは17節に書いてあります。「わたしは、あなたがたを立ち枯れと黒穂病とで打ち、あなたがたの手がけた物をことごとく雹で打った。しかし、あなたがたのうちだれひとり、わたしに帰って来なかった。」神様を離れた自分勝手な生活を送ろうと思った時、どんなに勤勉な仕事をしても、何も栄えませんでした。それは、以前、神様に敵対していたからです。しかし、彼らが神様に立ち返って、その宮を建て始めた時から、神様は彼らを祝福されるようになりました。18節の後半と19節をご覧ください。「第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。」この預言の日付は、現代の私たちのカレンダに合わせたら、12月であったということが分かります。12月の中旬までは、秋の雨が十分降って、地面を柔らかくしてから、種蒔きの季節が終わったはずですです。麦も、大麦も全部、種が蒔かれたので、何も倉に残っていませんでした。そのころから、新しい収穫を待つだけでした。収穫が良ければ、食物は十分あるはずですが、数年間、収穫は少なかったのです。しかし、ハガイは、穀物も木も実を結ばないうちに、神様の約束を伝えました。「きょうから後、わたしは祝福しよう。」と神様は言われました。次回の収穫まで、ユダヤ人は、その約束を抱いて、豊作を待ち望みながら、神様の神殿の働きに励みました。

神様の祝福の約束によって彼らは、励まされて、支えられたでしょう。ハガイの預言を聞いて、信じたユダヤ人は、神様の恵みだけに頼るように導かれたのです。ユダヤ人は周りの国の民族よりもすぐれた、きよい民だと思ってはいけません。ハガイの預言によると、彼らはみんな、汚れているからです。しかし、それなのに、もし彼らは、神様の約束を信じて、神様だけにより頼むのなら、神様に祝福されて、守られて、将来に現される神様の完全な救いを待ち望むことが出来るでしょう。    

C. 神様の約束された救い主

20—23節は、神様がどのように、ユダの国を祝福されるかを示しています。これはハガイに与えられた四番目の預言です。ここで、神様がご自分の圧倒的、また全般的な主権を現すように約束しておられます。このメッセージは特にユダの総督ゼルバベルに与えられたのです。ゼルバベルはダビデ王の子孫ですが、ダビデのようにイスラエルの王国を治めることになりませんでした。しかし、それなのに、ゼルバベルの信仰に応じて、この特別な預言が与えられました。その日以来、多くの政治的な変化が起こるでしょう。ペルシア王国は、アレキサンドロス大王とそのギリシャ帝国に負けて,倒れます。しかし、イスラエルの神、万軍の主は、すべてを支配しておられます。「わたしは天と地とを揺り動かし、もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。」大騒ぎになるでしょうが、ゼルバベルは倒れません。それは、ゼルバベルは神様の選ばれた者だからです。「その日(すなわち、騒ぎの日)―—万軍の主の御告げ――シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ。わたしはあなたを選び取る。―—主の御告げ――わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。―—万軍の主のみ告げ――」神様はゼルバベルを祝福し、彼を独特のしもべとして守て下さるように約束されました。それはは明白です。でも、彼をイスラエルの王位に着かせるつもりでなければ、どうして神様はゼルバベルを特別に守ってくださるのでしょうか。それは、昔にダビデ王との契約をお結びになった時、その子孫の中の偉大な救い主を立てて、彼に永遠の御国をお与えになることを神様が約束されたからです。新約聖書を調べてみれば、ダビデ王の子孫、またこのゼルバベルの子孫として、主イエス・キリストがお生まれになったことが分かります。このゼルバベルはお王座に着かなかったのに、もっとすぐれた役割を果たしました.彼は、「王の王、主の主」なるキリスト・イエスの先祖になりました。この偉大な救い主なるキリストによって、ご自分の民は悪魔の圧制の中から贖われて、救い出されます。コロサイ書1:13—14にこう書いてあります。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」ハガイのこの最後の預言は、確かに、ゼルバベルの子孫、「平和の君」と呼ばれるイエス・キリストの現われを指しているのです。そのキリストは、ユダヤ人が建てる神殿の中で神様のご栄光を現し、神様とその選ばれた民との間に、真の平和をお定めになります。こういうわけで、ハガイ書2:9に次のように書いてあります。「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。―—万軍の主のみ告げ――」ゼルバベルは、神様の選ばれた者として、神様の「印形」のようにその王権の約束を次の世代に渡します。その救い主の現われまで、神様の民は、信仰を持って、その約束が実現されるまで、待ち望むのです。    

III. CONCLUSION

終わりに、ハガイの預言を振り向いて見ると、三つのことを心に納めて、現在の私たちの生活の中で適用して欲しいと思います。ハガイの預言は特に、この悩ましい世界の中で、神様の者としてどのように生き、栄えて、成功することが出来るかを教えていると思います。すべては神様の御恵みによります。まず、私たちは昔のユダヤ人と同じように、神様の祝福を求めるように導かれる必要があります。神様の祝福がなければ、どうしても人生をうまく過ごすことはできません。

第二に、神様の約束を信頼しなければなりません。神様は偽りを言うことは出来ません。もし神様は、「こうしなさい。そうすれば、必ず祝福します。」と言われるなら、その約束を信頼してください。しかし、主のみこころを行なうということは、口先ばかりでもなく、人の目の前に見せかけることでもありません。心より喜んで主のみことばに従う者だけ、神様を喜ばすでしょう。そのような人は神様に喜ばれる信仰を持って、神様とその御恵みにより頼むでしょう。その人は主の祝福を得て、幸いです。それは、神様の約束です。

それから、第三に、神様が要求される仕事をしなさい。特に、神様の伝道命令を忘れてはいけません。(Mt. 28:19-20)「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」信者たちが伝道行為に励むことを通して、主イエスはご自分の教会をお建てになります。主のしもべとして、その御国の基本的な仕事に励みましょう。主イエスの教会を建てる仕事に専念しましょう。万軍の主のこの仕事をすれば、主の祝福が必ず与えれられます。確かに、それは、幸いな生活の秘訣だと思います。お祈りします。

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