三日目によみがえられたキリスト

KASUMIGAOKA   2016/10/30

Sermon:  「三日目によみがえられたキリスト」  “Christ Risen on the Third Day”  
Text: Matthew 28:1-15

I. Introduction

 主イエス・キリストは、十字架にかかって罪深い人々のための贖いの代価として、ご自分のいのちをお捧げになりました。こういうわけで、キリストの十字架は、初めからキリスト教の中心的な教理でした。しかし、 キリストの弟子たちが、その十字架のメッセージだけ宣べ伝えようとしたのなら、キリストの教会は長く立ちえなかったでしょう。初代教会は亡くなった殉教者の十字架に立てられたどころか、すべてを治めておられるイエス・キリストの復活に基づいたのです。主の弟子たちは、十字架につけられ、死にて葬られ、三日目によみがえられたキリストのメッセージを「地の果てにまで」広めました。初めからキリスト教の活動的な宣教とその成功とは、よみがえられた主イエス・キリストを信じる信仰に基づいたのです。キリストの御体が物質的によみがえられたのでなければ、ご自分の復活を約束されたキリストを信頼できないでしょう。イエス様の命令や教えを受け入れて、それに従っても、もし主イエスご自身がよみがえられなかったら、そのような信仰、または服従によってだれも救われません。キリストが復活されなかったのなら、キリストを信じる信仰は全くむなしいと聖書が言っています。たとえば、コリント人への手紙第一15:14、17、19にこう書いてあります。「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。...そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。...もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」初代教会から本当のキリスト信徒はみな、キリストの復活を信じています。でも、なぜそんなに驚くべき事を信じるのでしょうか。使徒マタイは28章でこの大切な質問に答えてくれました。それでは、マタイの記録した出来事を見てみましょう。主は十字架上で死んで、葬られた後、三日目に何が起こりましたか。マタイは目撃者の証言を記したのです。その復活の証しについて、三つの事を心に留めていただきたいと思います。    

II. 目撃者の証言:三日目に何が起こったのか  (The Eyewitness Report)

  
  A.  まず第一に、目撃者の証しによると、その三日目の朝には主イエスのお墓は空だったということです。女の方々は、「週の初めの日の明け方」イエス様の墓を見に来たが、もうすでに、その墓は空でした。実は、だれも、イエス・キリストがその墓の中から出て来られるのを見ませんでした。ほかの福音書の記録を調べてみれば、マタイの2-4節に記されたことは、ふたりの女たちが来る前に起こっただろうということが分かります。女たちがその墓に着いた時までに、主イエスの御体はすでになくなりました。その時までに大きな地震が起こって、主の御使いが天から降りて来て、大きな石を墓の入口からわきへころがして、そして番兵たちがすでに「死人のようになった」と書いてあります。女たちがその場面を見ると、もちろん驚きました。そこで、御使いは彼女たちに、言いました。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、 私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」もうすでに、主イエスはよみがえられたのです。しかし、主のよみがえりを目で見た者は一人もいません。番兵たちもそうでした。実は、主イエスがいつよみがえられたかが書いてありません。墓の入口の中から出て来られたわけではないでしょう。御使いが見える前に、主はすでによみがえられたかも知れません。復活された主イエスの御体は以来、墓の入口の石とか、戸締りなどのような物質的な妨げによって限られません。 では、よみがえられたイエス様が出られるためのでなければ、なぜ御使いが天から送られて、墓の石をころがしたのでしょうか。それは、確かに、人々がその墓の中を見ることが出来るためでしょう。御使いが6節で女たちに言ったことばをもう一同読みましょう。イエス様は「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」と言いました。それから、続いて、言いました。「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」その女たちが自分の目で主の御体が墓の中にはないことを確かめたのです。ある意味で、神様の圧倒的な力を示し、封印を破り、大きな石をころがして、番兵たちを征服したという、力強いわざはみな、その女たちが主イエスの復活を証することが出来るためでした。彼女たちは、墓の中を見て、主の御体がないことを確認しなくてはなりませんでした。ですから、神様の不思議な御力によって、すべての妨げを取り除いてから、主の使いは女たちに、「来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。」と言いました。要するに、主の使いは、主イエスを墓の中から釈放するためではなく、その女たちを主の復活の証人として整えるために遣わされたのです。

それに、女たちは主が前におっしゃったとおりによみがえられたことを出来る限り確認してから、主の使いの指示に従って出かけました。7節で、「ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。」と言われました。主イエスの復活を初めて知り、初めてその良き知らせを伝えるように遣わされた証人は、この女たちです。彼女たちに委ねられたお知らせは、「イエスが死人の中からよみがえられた」という不思議なことでした。主イエスはもはや、その死体がお墓の中にはありません。

B.  それに、マタイが記した第二のことに進んで行きましょう。8-10節において、主イエスご自身がその女たちにお出会いになったことが書いてあります。これはマタイが強調する二つ目のポイントです。この出会いは、注目して考えるべきことだと思います。まず、女たちがどのようによみがえられた主イエスに出会ったかを考慮して見てください。彼女たちは、御使いが言ったとおりに、急いで主の弟子たちに知らせるために出かけました。「恐ろしくはあったが」と書いてありますね。神様の不思議な力におおわれた場所から出た女たちが、その恐れを覚えたことは当たり前でしょう。しかし、恐れだけではなく、彼女たちは「大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った」とマタイが言っています。なぜ、彼女たちは、大喜びに満ちたのでしょうか。自分の目の前で、愛する主イエスが十字架上で死なれたのに、今や、よみがえって、生きておられる知らせを聞いたからです。自分の目で見た証拠の上で、信じたわけです。マタイは、1節に書いた「墓」に訳したギリシャ語の単語と8節に見える「墓」は、別のギリシャ語の言葉なのです。マタイは、なぜ別な言葉を8節に書いたのでしょうか。その理由は説明されていません。しかし、私は面白いことに気づきました。1節に書いた「墓」は「葬られた場所」という基本的な意味です。しかし、8節で使ったギリシャ語の言葉は、「記念碑」という意味です。お墓は一般に、人の死とその埋葬を記念するでしょう。しかし、その女たちは、急いで主のお墓を離れた時、どのような思い出を抱いていたのでしょうか。その三日目に、主の墓が何を記念するのは、埋葬からよみがえりに変わりました。主の空の墓はその時以来、主の復活を記念するものになりました。

さて、その女たちが主の使いの命令に従って、弟子たちにその良い知らせを伝えに急いでいるうちに、二つ目の驚くべきことが起こりました。9節にこう書いてあります。「すると、イエスが彼女たちに出会って、『おはよう』と言われた。」何も起こらなかったようにイエス様は、普通の挨拶の言葉で出会われたのです。彼女たちはすぐ、挨拶された方は敬愛する主イエスであることを認めました。ところが、彼女たちは、主イエスにいつものような挨拶の言葉を返したわけではなかったのです。むしろ、「彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。」と書いてあります。この出会いについて二つのことを注目してください。一つ目は、彼女たちは自分の手で、復活されたイエス様の足を抱いたということです。この主イエスは本当の肉と骨を持っておられる方です。彼は、幻や幽霊のような存在だけではありません。何か霊的な現われだけだったら、彼女たちは手でその足を確実に抱くことが出来ませんでした。二つ目の点は、彼女たちは、主の前にひれ伏して、主イエスを拝んだということです。ユダヤ人はみな小さい時から、まことの主なる神は、ただおひとりであると教えられました。「ほかの神々を拝んではならない。」しかし、彼女たちは、ひれ伏して、よみがえられたイエスを拝んだのです。マタイの福音書4:10で、サタンに誘惑された時、イエス様は、悪魔を叱って言われました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」弟子たちは、真の神様のほかに、どのような方であっても、彼を拝んではならない。しかし、よみがえられたイエス様は、その女たちの礼拝を受け入れられたのです。

そこで、主は彼女たちに話されたのです。優しく言われました。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」主イエスが逮捕された時、「弟子たちはみな、イエス様を見捨てて、にげてしまった。」(26:56)しかし、今はよみがえられたイエス様は、その弱い不忠の弟子たちを「わたしの兄弟」と呼ばれます。彼は、何と恵み深い方であろう。マタイの記録によれば、弟子たちがガリラヤに行って、そこでよみがえられたイエス様に会えるということです。マタイは、イザヤ書の預言が成就するために救い主の光がまず、異邦人のガリラヤで照るべきだということを強調しています。こういうわけで、マタイの福音書によると、主イエスの宣教の奉仕は、ほとんどガリラヤで行われたということです。たとえば、マタイは4:14—16で、「これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。」と言って、それからイザヤ書を引用して、言いました。「異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」その光は、よみがえられた救い主なるイエス・キリストのことです。ですから、主の宣教の奉仕が北のガリラヤから始まりましたように、神様の完成された救いのメッセージもガリラヤで宣べ伝えるべきだとマタイは強調しているようです。

それに、マタイはもう一つのことを強調しています。それは、主イエスが弟子たちを赦してくださるのにも拘らず、ガリラヤに行って、そこで主イエスに会えるまで、弟子たちが、忠実な女たちの証に頼らなければならないということです。よみがえられた主イエスはまず、ご自分の復活の良き知らせを男の弟子たちではなく、女の弟子たちに任せてくださったということを忘れてはいけません。使徒マタイは、きっと忘れませんでした。

これまで、主イエスのよみがえりについての良き知らせ、いわゆる福音は、どのように宣べ伝えられたかということを中心としています。女たちが初めて主の空のお墓を見て、初めて神の使いに主の復活を弟子たちに知らせるように言われたのです。そして、彼女たちは初めて、よみがえられた主イエスに出会って、初めて主が復活されたことをを弟子たちに知らせるように言われました。しかし、もう一つの証言が広められたのです。それは、ユダヤ教の祭司長や長老たちが生じた偽りの証言でした。11—15節でマタイは、この偽りのうわさがどのように立てられたかを説明しています。
  

C.  女たちが主の復活を弟子たちに知らせるために急いで行っているうちに、主の墓の番兵の数人は、ほかのことを祭司長に報告していました。番兵たちは、起こったことを全部報告したとマタイが11節で言っています。けれども、実は、番兵たちが起こったことは全部知りませんでした。正直に言えば、彼らは、地震のこと、御使いが天から降りて来たこと、墓の石をわきへころがしたこと、そして一時的に意識を失った番兵たちが立ち直って、墓の中を見ると、イエスの体がなかったというような報告ができたかもしれません。でも、イエスの体については、何も知りませんでした。しかし、番兵たちの報告を聞いた祭司長たちは、長老たちと相談したうえで、偽りのうわさを広めるように番兵たちに言いました。彼らを説得するために多額のお金を与えて、そして、総督ピラトの耳に入っても、彼をうまく説得して、番兵たちを守るように約束しました。祭司長たち、長老たちは番兵たちに次のように言いなさいと言いました。「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った。」もちろん、そのような作り話は常識に欠けているのです。なぜなら、番兵たちが皆、ぐっすり眠ったからと言っても、だれも目覚めないうちに、弟子たちがそんなに大きな石を数人の力によってころがして、静かに死体を盗むことは、想像しにくいことです。それに、ローマの軍隊の中で番兵に立っている間、眠ってしまうことは、深刻な犯罪と認められました。兵隊の義務に関する規則は非常に厳しかったんです。だから、兵士は番をしている間、眠ったことがあっても、そんなことを公に告白しないはずです。その上、もし、番兵たちは、本当に眠っていたのなら、だれが、どのように、イエスの体を盗んだかが全然分からないでしょう。ところが、常識に反しても、番兵たちが多くの金を受けて、指図された通りにしました。ユダヤ人の間にその作り話が広まって、約30年経ってからも、マタイがこの福音書を書いている時まで、そのうわさは、まだ及んでいました。ところで、その二つの証言を聞いて比べれば、どちらが信頼できるでしょうか。祭司長たちが多額の金で買った番兵たちの証言ですか。または、多くの弟子たちが自分のいのちをかけて、または、いのちを捨てるほど、固く信じて、活動的に宣べ伝えた復活の証言なのでしょうか。    

III. CONCLUSION

さて、終わりに、これらのことについてどう考えたらいいのでしょうか。そして、今日の聖書の学びをどのように自分の生活に適用できるのでしょうか。まず、第一に、現在の人々は、復活という奇跡的な出来事が不可能だと思って、前もって女たちの証言を除外する傾向があるでしょう。でも、人間の私たちがまだ完全に理解できないことは結構多いでしょう。自分自身が経験しなくても、ある事実を信じるでしょう。なぜ信じるのでしょうか。それは、信用できる人の証言を受け入れた上で信じるではありませんか。初代教会から、主イエスの弟子たちの証は信用できると思われたので、その証は信じられて、世界中に広まって行きました。しかし、ものを信じるために、神様の霊的な導きも必要です。人は、まだ知らないこと、まだ経験しないことを真面目に考慮するように、その人の心が神様の力によって開かれる必要があります。私たちも、キリストの真実を他の人々に伝える前に、まず、聖霊の導きを求めて祈りましょう。

それに、第二に、主のよみがえりは、聖書が宣言することや、主イエスが言われたことを全部、確認しているのです。イエス様は、本当に神様の御子キリストです。イエス様の自己犠牲によって、私たちの罪はみな赦されます。三日目によみがえられたキリストは天に上り、父なる神様の右の御坐に着かれたのです。今も、とこしえにも主イエスが生きて、すべてを支配しておられます。そして、復活された主イエス・キリストに頼る私たちも、定められた日によみがえり、主イエスとともに新しい世界に永遠に住むという約束があります。イエス様が復活されなかったら、これらのことを望むことはむなしいです。しかし、主の使いがマリヤに言ったとおりです。「主はここにはおられません。彼はよみがえられたからです。」

第三に、よみがえられた主イエスを信じている私たちにとって、ご自分の復活により、主が死のとげを取り除いてくださったのです。(1Cor. 15:55-58)

最後に、主イエスが死者の中からよみがえられたというすばらしい知らせは、まず、主の12弟子に与えられたわけではなく、その墓に参りました忠実な女の方に与えられたのです。主イエスは男の弟子たちを使徒たちとして、福音を世界中に伝えるように派遣されましたが、特別な奉仕を女たちに与えてくださいました。女の弟子たちも初めから、キリスト教会の中の非常に大切な役割を持って、重要な務めを果たしておられることを忘れてはいけません。

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