ふたりの弟子の物語

KASUMIGAOKA    2016/09/18
Sermon: 「ふたりの弟子の物語」 “A Tale of Two Disciples”
Text: Matthew 26:45-56
  
I. Introduction –序論

今日の聖書個所を読むと、二つのグループが見えます。一つは主イエスと彼がこの世で創立された天の御国に全く反対しています。その他のグループは主が指導しておられる弟子たちの仲間です。ゲッセマネというところで祈りを終えて、苦難と死に至る道にご自分を任せてから、主イエスはご自分の後について来るように弟子たちを呼んで言われました。「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」イエス様は、ご自分が必ず死ぬことも、弟子たちが失敗することもご存知であるのにもかかわらず、敵の群衆に立ち向かって出るように弟子たちをお呼びになりました。主イエスを愛し、自分が死んでも主に従うと言い張っている弟子たちのグループと、イエス・キリストとその御国を憎む者たちのグループは、ここで互いに立ち向かいます。主の本当の弟子たちは、いったいどのようにキリストの王権に反対する者たちに対立するのでしょうか。ここで、主イエスがどのようにキリスト教会が世に対立すればいいかを教えてくださるのです。
それに、主イエスの仲間のふたりの弟子は、この箇所の焦点です。この弟子たちのひとりは、もちろん、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダです。47節で「十二弟子のひとりである」と書いてあるのに、ユダは、主イエスの敵の群衆とともに現れ、イエス様を罪人たちの手に渡したのです。ユダは全く不忠実な弟子でした。真実のところは、ユダは偽者の弟子でした。ユダの役割は47-49節に記されています。しかし、もうひとりの弟子は、ここで現れています。51節でただ「イエスといっしょにいた者のひとり」と呼ばれているのです。ヨハネの福音書を読めば、この弟子の名前が分かります。彼は、ペテロなのです。マタイがペテロの名前を記録しなかった理由は書いてありませんが、もしかすると、ペテロは他の弟子たちを代表者として記録されているからかも知れません。それなら、ペテロは自分自身だけではなく、他の弟子たち全員の態度を示しているわけでしょう。35節に書いてあるように、その晩、弟子たちが主イエスに従ってゲッセマネに歩いている間、ペテロは、自分のしっかりした忠誠を告白して言いました。「『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたをしらないなどとは決して申しません。』弟子たちはみな、そう言った。」その時、ペテロはすべての忠実な弟子たちを代表する声でした。今日の箇所においても、ペテロの衝動的な行動には、忠実な弟子たちの意向が示されるでしょう。

ユダとペテロ、このふたりの弟子たちのことを比べて学びたいと思います。しかし、その昔の歴史上の人物だけではなく、現在の教会とその会員についても、学んで行きたいと思います。主イエスに従うことについて、聖書がここで何を教えてくれるのでしょうか。

    II. TWO DISCIPLES CONTRASTED ―ふたりの弟子たちを比較する

A. JUDAS―イスカリオテのユダ  
この箇所の中で初めに現れる弟子はユダです。「十二弟子のひとり」と呼ばれるのに、このユダは、イエス様をつかまえるために、敵の群衆を案内した裏切る者です。イエス様が祈っておられる間、ほかの弟子たちは、眠って休んでいました。しかし、ユダはその間、祈ることもなく、休むこともありませんでした。かえって、彼はその間、祭司長や長老たちのところに行って、「剣や棒を手にした大ぜいの群衆]を集めて、イエス様のところまで案内していました。

ユダについて次の三つの点を心に留めてください。まず、第一に、彼はキリストの弟子のように思われたのに、主の敵の頭になったということです。ユダは、むごい扱いを受けるようにイエス様を罪人たちの手に渡しました。キリストの教会の長い歴史を振り返って見ると、教会に最もひどい損害を与えた人々は、ユダのように、忠実な弟子たちと思われたでしょう。この霞ヶ丘教会の経験も例外ではありません。こういうわけで、聖書において次の警告が教会に与えられています。「狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、わたしは知っています。あなたがた自身の中からも、色々な曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。」(Acts 20:30-31a)教会の皆は、目をさましていなければなりません。出来る限り、互いに知り合う責任が与えられています。そのために、教会の皆さんは、勉強だけではなく、親密な交わりの時も重んじて、交わりの機会を設けなければなりません。出来るだけ互いに心を開き合ったり、励まし合ったりしなければならないでしょう。そのために、教会の人たちは、ただ表面的に互いに知り合うべきではありません。主イエスの弟子たちの中で、ユダは信用できる弟子だと思われたでしょう。しかし、ユダの心、すなわち、その信仰、思い、望みなどに十分気づいた方はイエス様のみです。イエス様だけ、ユダの心の状態がお分かりになりました。彼はキリストとその御国の大敵になったが、主イエス以外にだれも知りませんでした。

第二に、ユダは偽善者でした。主イエスと弟子たちとともにいる間、忠実な弟子のようなふるまいを公に見せたでしょう。しかし、信者の仲間を離れて行けば、彼のふるまいはすぐ変わりました。彼の良い行ないは見せかけだけで、その心はイエス様から遠く離れたのです。ユダが回心されなかったことは言うまでもないでしょう。それどころか、彼は単なる偽善者でした。

最後の晩餐の時、イエス様は、弟子たちに、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」と言われましたが、ユダは、自分がすでに主を裏切るように決心したのに、「先生。まさか私のことではないでしょう。」と答えて言いました(26:25)。それに、ユダは善意と潔白を主張しながら、終わりに、主イエスを口づけで裏切って、敵の手に渡してしまいました。終わりまで、ユダは自分の心の悪を隠そうとしましたが、その偽善者らしい最後の合図によって、とうとう本音をはいたのです。ユダは、初めから終わりまで、完全な偽善者でした。キリスト教会においては、偽善は大目に見てはいけません。教会の主な責任は、真理を伝えることにより神様のご栄光を現すことです。偽善者は、真実を隠して、人をだまそうとするでしょう。しかし、キリストの教会は「真理の柱また土台です」(1Tim. 3:15)。

続けて、第三に、ユダは主イエスのあわれみに対して、自分の心を決定的にかたくなにしてしまいました。人間の立場から見れば、心をかたくなにすることはすべての罪の中の一番危険のある罪です。心がかたくなになる人は、聖霊の働きに反抗し、悔い改めることが出来なくなります。そんな人には、悔い改めとともに救いの可能性も消えてしまいます。こういうわけで、詩篇95篇8—9, 11節にこの警告のことばが書いてあります。「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。あのとき、、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。… それゆえ、わたしは怒って誓った。『確かに彼らは、私の安息に、はいれない。』」イエス様がユダの計画を知って、彼の偽善的な口づけを受けても、ユダを「友」と呼ばれました。おそらく、その遅い時にも、ユダの良心が刺され、彼が恥ずかしく思って、悔い改めるために、主が彼を「友」と言われたかも知れません。しかし、ユダは心のかたくなが溶けませんでした。心がそんなにかたくなになったユダは、悔い改めることも、主を信頼することも出来ませんでした。

 B. PETER― ペテロ
 
   この箇所の焦点が合っている二番目の弟子はペテロです。ユダと違って、ペテロは主イエスの忠実な弟子のひとりです。初めから、自分の力を尽くして主をあらゆる敵から防衛しようとするように決心しました。しかし、ペテロも危機の時に主イエスを離れて、その敵から逃げてしまいました。ペテロはイエス様をその敵の手に全然見捨てるつもりではなかったが、結局彼はは失敗しました。なぜペテロが失敗したかと言えば、理由は三つあると思います。まず、ペテロはイエス様の預言のお話しを信用できる神様のみことばとして受け入れませんでした。主が繰り返して、聖書に従って、「人の子は、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」ことをお知らせになったのに、ペテロはそれを信じませんでした。その晩、「人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。」と言われました(26:24)。それに、弟子たちに、「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。」とおっしゃいました。でも、ペテロは、主イエスのみことばに抵抗し、自分の思いのままに、剣を出して、主イエスを防衛しようとしました。しかし、イエス様はペテロを叱って言われました。「だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」主イエスによると、聖書は実現されなければならないそうです。しかし、ペテロは聖書が絶対に信頼すべきであることをまだ認めませんでした。これは、ペテロが失敗した、第一の理由でしょう

第二に、ペテロは主イエスの力を過小評価しました。ペテロは主の謙遜な態度を弱さとして受け取りました。「イエス様はご自分を防衛することがお出来にならないだろう。私は主を敵から救い出してあげなければならないだろう。」ペテロはそのように考えていたでしょう。しかし彼の考えは全く間違っていました。主は敵に対して何もできないわけではありませんでした。53節でペテロに答えて言われました。「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今私の配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。」主の御こころなら、圧倒的な力を出して、すべての敵を滅ぼすことがお出来になるでしょう。しかし、敵を滅ぼすことよりも、父なる神様のみこころに服従することを、優先すべきだと主イエスは知っておられました。父のご計画に従わなければ、最後の大敵なるサタンを決定的に倒すことが出来ません。ローマ軍隊の一軍団はだいたい6,000兵隊で成り立っていました。主は本当に莫大な軍隊の力を支配しているように言われました。実は、父なる神様のみこころに服従することは、主イエスの驚くべき力を示しています。しかし、ペテロは、主の本当の力を過小評価しました。だから、ペテロは、主の力の代わりに自分の力に頼って、失敗しました。

 ペテロが失敗した第三の理由は、彼は自分の力、知恵や、善を過大評価したということです。神様の御国の戦いは、剣の力によって敵に勝つわけではありません。ある宗教信徒は剣やほかの武器、爆弾などをもって、敵に勝って、世に広がって行こうと思うでしょう。歴史の中でキリスト教会も間違って、暴力で世の敵を破ってみようとしました。しかし、天の御国の霊的な戦いは、剣や圧制によって、勝つわけではありません。ペテロは自分の手と剣の力によって、主イエスとその御国のために戦おうとしました。しかし、そのような物には、この世を征服する力はありません。だからこそ、主は52節でペテロにこう言われました。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」しかし、その反面もそうです。すなわち、単なる物質的な武器でキリストの御国は破壊されません。この世におけるキリスト教会は、キリスト・イエスが備えてくださった霊的な武器によって、結局あらゆる敵を破って、神様のご栄光を現しながら、この世を征服すると聖書が教えています。(Eph. 6:14-17.)

   III. CONCLUSION  

A.  さて、今日このふたりの弟子たちの経験から学びましたことをまとめて、終わります。特に二つのことを覚えて、自分の生活に適用してみてください。第一に、自分の心を知るように、自分を吟味しなければならないということです。来週は、主の晩餐に与る予定があります。その前に、自分の心を探り、主イエスへの信仰、希望、と愛を確認するようにお勧めします。あなたはどのような弟子なのでしょうか。偽善者ではないと思います。しかし私は、あなたがたの心の中のあらゆる隅に隠れているもの、たとえば、汚い思い、怒り、自慢、悪意、ねたみなどを知りません。主イエスの御前で、自分の心を吟味するたびに、聖霊の助けにより、心の隅に集まった悪い思いなどをみな認めて、捨てるべき機会です。愛する兄弟姉妹、自分の心を吟味して、主イエスにふさわしくないものを見つけたのなら、聖霊による心の掃除を求めましょう。そして、心をきよめていただければ、ほかの悪い思いなどが入り込んで来ないため、心の中に聖書の教えを納めましょう。詩篇119篇9,11節のみことばを忘れないでください。「どのように若い人は自分の道をきよく保てるでしょう。あなたのことばに従ってそれを守ることです。...あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」ペテロ自身が学びましたことを私たちにも教えてくれます。ペテロの手紙第二1:10です。「ですから、兄弟たち。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていればつまずくことなど決してありません。」

B. 最後に、もう一つのことをぜひ覚えていただきたいと思います。それは、「良い忠実な弟子さえも、時々つまずくだろう」ということです。それは、私たちが神様のみ言葉を十分理解しないから、または、ペテロと同じように、み言葉を信頼しないからです。でも、つまずいて、失敗しても、立ち返って赦される可能性があります。それは、私たちのただ一つだけの希望です。私たちが罪を犯して失敗したとき、また立ち上がって、天の御国を仰ぎ見て、前進出来ることは、主イエスの大いなる御恵みによります。主の御恵みによって私たちのような弱い弟子たちも効果的な働きができ、主イエスの忠実な弟子たちになるでしょう。お祈りいたします。

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