主によって訓練された人々

KASUMIGAOKA   2018/07/08 
SERMON:   “Disciplined By the Lord” 「主によって訓練された人々」 
TEXT: Hebrews 12:4-13       

I. INTRODUCTION イントロダクション

クリスチャンが直面する最も困難なことの一つは、信仰によって生きることが、神との和解に伴う喜びと平和とともに、しばしば痛みや苦しみをもたらすという事実です。新しくクリスチャンになった人たちは、回心以前に経験したことのない、新しい困難があることを発見(はっけん)することがよくあります。皆さんの中にも、このような経験をした方がいらっしゃると思います。キリストに従うことに決め、そして今、イエス様を信じる前よりも、人生が困難であるように思えるのです。神様に仕え、他の人達の福祉(ふくし)を求めるために忠実に働くクリスチャンが、以前にも増(ま)して敵意(てきい)や困難に遭遇(そうぐう)するのは、とても奇妙(きみょう)なことのように思えるかもしれません。しかし、イエス様は弟子たちに、このようなことが起こると警告されました。イエス様はこうおっしゃいました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難(かんなん)があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)」そして使徒パウロは、エペソ6:12でこのような説明を付け加えています。「私たちの格闘(かくとう)は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)」この問題が、今日のヘブル書の箇所でも扱(あつか)われているのです。クリスチャンは信仰によって、この霊的な戦いを毎日戦(たたか)います。私達は、周りのほとんどの人たちが認識すらしていないような敵に直面するのです。今日な箇所を見る中で、私達がこの世の中で直面する霊的な戦いを戦い、そして勝つために、神様が私達をどのように訓練されるかを学ぶことができるのです。

II. GOD’S TRAINING PROGRAM (私達を成功に導く訓練)

A. THE MEANING OF “DISCIPLINE” 「訓練」の意味

12章で、ヘブル書はスポーツ競技(きょうぎ)の比喩(ひゆ)を用いて、クリスチャン独特(どくとく)の葛藤(かっとう)に向き合う方法を示しています。最初の3節は、私たちより先の、忠実な証人たちの雲(くも)を思い出して、忍耐を持って私達の前の「競走」を走るように励まします。私たちを遅くする「重荷」と、私たちをつまずかせるようなまつわりつく罪とを捨てるように言われています。そして最も重要なのは、私達を競走の終わりで待ってくださっているイエス様から、目を離さないことです。そして今日の箇所では、また違う種類(しゅるい)の競技(きょうぎ)について言及されています。それは、どちらかといえばレスリングのような競技です。4節の「(罪と)戦う」というギリシャ語の言葉は、「相手と格闘(かくとう)する」という意味の言葉です。さらに、11節の「訓練された」という言葉は、走るためのトラックではなく、体育館の中で行われたトレーニングを指しているのです。この表現は、若いアスリートが敵に直面し、そして勝利するために受けなければならない真剣(しんけん)な、そしてしばしば痛みを伴うトレーニングについて強調しているのです。
今日の箇所の中で名詞と動詞の両方の形で8回使用されるもう一つの言葉は、「鍛(きた)える」または「訓練する」という意味の言葉です。この言葉は、様々な文脈(ぶんみゃく)において、様々な日本語の言葉に翻訳されています。古い新改訳第三版をお持ちの方は、この言葉は「懲(こ)らしめ」もしくは「懲らしめる」と訳されています。しかし、新しい2017年の新改訳をお持ちの方は、「訓練」と翻訳されていることに気づくと思います。この箇所では「訓練」がより良い翻訳だと思います。なぜならここで言われている考え方は積極的(せっきょくてき)な内容ですが、「懲らしめ」と言ってしまうとより否定的(ひていてき)になってしまいます。ヘブル書12章でこのギリシャ語の単語が意味しているのは、「懲罰(ちょうばつ)」という意味というよりは、「訓練」という意味なのです。それは父親が子供に与えるような訓練、そして監督(かんとく)がチームに与えるような訓練です。真(しん)の物理的な訓練は痛みを伴(ともな)うものです。神様の訓練も痛みが伴うのです。それはあなたの信仰を伸ばし、そして痛みを伴うものでもあるのです。これを理解すれば、神の訓練を批判(ひはん)したり拒否(きょひ)したりするのではなく、むしろ歓迎するようになるでしょう。ヘブル書は、神様の訓練が、痛みを伴いながらも、どれだけ益をもたらすかについて、3つの重要な問いに答えています。 この三つの問いを考えて行きましょう。   

 B. THREE QUESTIONS CONCERNING GOD’S DISCIPLINE 神の訓練についての3つの問い

第一の問いは、「なぜ神様は私たちを訓練されるのか?」という問いです。もちろん、神様の訓練は、特定(とくてい)の目的を持っています。親のしつけの目的は、子どもをより良い人間そして社会の一員(いちいん)へと成長させることです。監督(かんとく)のトレーニングの目的は、若いアスリートをより強く、より競争力(きょうそうりょく)のあるものにすることです。そして神様の訓練の第一の目的は、「罰する」、すなわち壊(こわ)すことではなく、神の民を建てあげること、特に彼らの徳(とく)を高(たか)めることです。しばしば痛みを伴う神の訓練の経験について、私達はこのように考えなければならないのです。ヘブル人への手紙の宛先(あてさき)であったキリスト教徒(きょうと)の中には、彼らが直面した反対、おそらく家族や隣人、同僚(どうりょう)からの反対によって落胆(らくたん)していた者もいたようです。ヘブル書は箴言3:11-12を引用しています。神はあなたを「わが子」と呼んでいるではないですか!神様は私達を、人間の父親が我が子を愛するように愛してくださるのです。そのことを忘れたのですか。神様はあなたを愛してくださるが故(ゆえ)に、あなたを見守ってくださるのです。あなたが神の目に高価なので、神様はあなたを訓練してくださるのです。神と人とにより良く仕えることができるように、あなたを訓練されるのです。我々(われわれ)は、反対に直面したときに、信仰と能力においてより強くなります。これが私たちを訓練する神様の方法なのです。この訓練を通して、私たちは神様が提供してくださる霊的な導きと力とに頼ることを学ぶのです。
私たちの息子のクリストファーは、アメリカの陸軍(りくぐん)で訓練を始めました。身体的(しんたいてき)にも精神的にも、そして感情的に非常に厳(きび)しい訓練です。彼らは早朝(そうちょう)4時から毎朝起きて、夜遅(よるおそ)くまで働きます。新しい兵士(へいし)の中には、厳しい訓練に対応(たいおう)できず、すぐにドロップアウトしてしまいます。しかし、訓練の目的は、兵士を強くすることであり、兵士の心を失わせることではありません。これは神の訓練の目的でもあります。神様は私たちの心を強くし、困難を「訓練と思って耐え忍ぶ」ことができるようにしてくださいます(7節)。私たちは、神様の善意こそが神の訓練の真の動機(どうき)であることを理解しなければなりません。神様が本当に私たちを愛しておられるので、たとえ苦しい時であっても、神様の訓練を受けることを期待するべきなのです。訓練は特別な、異常(いじょう)なことではありません。それは神の愛の証なのです。神様が愛する子供として私たちのことを気遣(きづか)ってくださるという証なのです。神様は私たちをお忘れにはなりません。私たちをお見捨てになり、敵によって破壊(はかい)されるようにされることはないのです。むしろそれとは反対なのです。神様は私たちが霊的な戦いに勝つために強化(きょうか)するように、訓練のプログラムを慎重(しんちょう)に計画しておられるのです!この理由で、ペテロはIペテロ4:19でこのように書いています。「ですから、神のみこころに従って、なお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」神様はなぜ私たちを訓練されるのでしょうか。それは、私たちを愛し、私たちが成功するようにご計画されているからです。これがヘブル書の3つの問いについての最初の答えです。
第二の問いはつぎのような問いです。それは「神の訓練はなぜ痛みを伴うのか」という問いです。ヘブル書は、その理由の一つとして、私達には「矯正(きょうせい)」は必要であると言っています。矯正は、私たちの行動に表面的な変化をもたらすこと以上のものです。神様の矯正は私たちの心、すなわち私たちの態度(たいど)に関することです。これを行うには、深く切り込む必要があります。私たちのプライド、自己義認(ぎにん)、誇りを切り落とさないといけないのです。そのためには、神様の聖霊の力と、神の御言葉という鋭(するど)い剣(つるぎ)、御霊の剣(つるぎ)によって私達の心が深く刺(さ)し通(とお)さなければなりません。私たちのほとんどはこの矯正が必要です。 2テモテ3:16-17は、クリスチャンが聖書を読まなければならない理由がここにあると言います。私達は神の御言葉によって矯正され、訓練されなければいけないのです。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」私達は、神様の御言葉と御霊によって常に矯正されなければ、神の良い働きのために有用(ゆうよう)ではなくなります。しかし、その必要な修正(しゅうせい)は痛みを伴うものになるでしょう。誰も自分の罪深さに直面したくないものですし、矯正されるのは好きではありません。私達は矯正されることよりも、称賛されることを好むのです。矯正は私たちのプライドを傷(きず)つけます。しかし、それは私たちが神様に仕えるためには必要なのです。私たちのプライドは傷つかなければなりません。むしろ、完全に取り去られなければならないのです。私たちが聖書を注意深く読み、自分自身について何を語っているのかを理解すれば、それは痛みを伴うのです。もし御言葉を正しく読むなら、それによって痛みがあるべきなのです。御言葉は私たちに教える以上に多くのことをします。私達を戒め、矯正し、義のために訓練するのです。神様が私たちを訓練される時の痛みについて、ペテロはこう述べました。(Iペテロ1:6-7)「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練(しれん)の中で悲しまなければならないのですが、 試練(しれん)で試(ため)されたあなたがたの信仰は、火(ひ)で精錬(せいれん)されてもなお朽(く)ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」神様は私達に試練をもたらされ、それによって私達は精製(せいせい)され、私たちの罪という不純物(ふじゅんぶつ)が取り除かれるのです。試練に忍耐するという訓練は、私達に自分の罪、すなわちプライド、偽善(ぎぜん)、自己義認(じこぎにん)や他の多くのものと向き合わせます。そして私達が、涙をもって、あわれみと赦しと保護(ほご)を求めるために神に叫ぶようにさせるのです。それは私たちを「しばらくの間」傷つけるのですが、神様が私たちを矯正されるとき、私達は喜ぶのです。なぜなら、神様は私達をイエス・キリストにさらに似たものとして、より聖なる者へとつくり変えてくださっているからです。
このことは、ヘブル書が言っている3つめの問いへとつながっていきます。それは、「なぜ、私たちは皆、キリスト教徒として、私たちの生活の中で神様の訓練をすすんで受け入れ、さらにはそれを求める必要があるのか」という問いです。この問いに答えるために、ヘブル書はまず、父親が自分の愛する子供をしつけるように、神様が私達を訓練してくださると言っています。もし自分の生物学(せいぶつがく)的な父親を尊敬(そんけい)し、家庭でのしつけが何らかのメリットを持っていると信じているなら、体(からだ)だけではなく精神(せいしん)をもしつけることができる神様を信じないでしょうか?地上の父親が子供を誇りに思っているように、神様は私たちが育って神様ご自身のようになり、神様の栄光を世界に反映(はんえい)させてほしいと願っておられます。しかし、神様の訓練は、地上の父親ができないこともすることができます。私達自身もそれをすることはできません。神様は私たちを「つくりかえる」ことがおできになるので、私たちは天の御父の真の姿を反映することができるのです。訓練の苦痛(くつう)は、神様が私たちの中でこの御業を達成されるために用いられる主(おも)な方法(ほうほう)の一つです。このことについてもう少し考えてみましょう。
もともと、神様は人を霊的にご自身に似たものとしてお造りになりました。すなわち、人はもともと知識と義と真の聖さのうえで「神の形に造られた」ものでした(エペソ4:24、コロサイ3:10)。しかし、最初の人アダムが神様に背いたとき、アダムは誇りと自己中心によって「ねじれたもの」となりました。アダムは神の完全な道徳的性格(せいかく)のはっきりとした明白(めいはく)さを失ったのです。申命記32:5は、人間の本性(ほんせい)がどれほど深く罪の影響(えいきょう)を受けたかを述べています。「主をそこない、その汚(けが)れで、主の子(こ)らではない、よこしまで曲がった世代(せだい)。」ローマ書1:21は、人々が神に従うのをやめた時、「その思いはむなしくなり、その鈍(にぶ)い心(こころ)は暗くなったのです。」と言っています。堕落した人間として、私達の本性(ほんせい)はねじれて堕落しているので、私たちは自分自身を「直す」ために何もできません。しかし、私たちが自分でできなかったことを、神様がしてくださったのです。死ぬためにご自身の御子を送ってくださることによって、私達をくらやみ、堕落、死の状態から贖(あがな)ってくださいました。そして、神様は聖霊を送ってくださり、私達の内側の「ねじれ」を「まっすぐ」にし始められました。ペテロが最初の説教を説教し、聖霊の賜物を約束したとき、聴衆(ちょうしゅう)にこう言いました。「この曲がった時代から救われなさい。(使徒2:40)」言い換えれば、「もはや、あなたがたの周りの曲がった世界のように生きてはいけない」ということです。パウロも、ローマのキリスト教徒に対して同様にこう書いています。「この世と調子(ちょうし)を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(新改訳2017年;ローマ12:2)」新しい新改訳聖書は、「自分を変えなさい」ではなく、「自分を変えていただきなさい」と訳しており、受け身の形であるこのギリシャ語の動詞をより忠実に翻訳しています。これは、神の御霊が、ご自身の民の心の中で行う御業です。聖霊は私たちの歪(ゆが)んだ考えや道徳的価値観を真(ま)っ直ぐにしてくださいます。彼はキリスト・イエスにある神様の完全な姿に私達を「定めて」おられます。訓練は、私たちの心の一新によって私たちを変えるために、聖霊によって用いられる手段の一つです。だからこそ、パウロはコリントの信徒たちにこう書いています。「ですから、私たちは落胆(らくたん)しません。たとえ私たちの外なる人は衰(おとろ)えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽(かる)い苦難(くなん)は、それとは比べものにならないほど重い永遠(えいえん)の栄光を、私たちにもたらすのです。(新改訳2017;IIコリント4:16-17)」これは、神様の訓練の価値(かち)を理解している人の態度を示しています。神の愛に基づく訓練の「一時の、軽い(時には軽くない)」苦難は、重い永遠の栄光を生み出すのです!これは、感謝の気持ちを持って神の訓練を受け、そして私たちの生活の中でその訓練をさらに求める理由にはならないでしょうか。
神の訓練は容易(ようい)なものではなく、忍耐は楽しいものではありません。しかし、ヘブル書が11節で言っているように、それは永遠につづくものではないのです。神の訓練は、あらゆる肉体的なトレーニングがもたらすことができるもの以上の益をもたらすのです。「後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

III. CONCLUSION 結論

今日の箇所にふさわしい結論は12-13節で与えられています。ヘブル書はこう励まします。「ですから、弱った手と衰(おとろ)えたひざとを、まっすぐにしなさい。」神様が与えてくださる義の訓練を喜んで受けとるべきです。皆さんを強くし、次に来るもののために備えをする訓練だと考えてください。辞(や)めるのではなく、神様があなたに与えた「練習(れんしゅう)」をすることにもっと力を注いでください。この大変な訓練をすることによってのみ、「戦いを戦う」「競走を走る」準備ができ、試合(しあい)で相手(あいて)を倒(たお)すことができるのです。あなたの大きな敵、悪魔自身は、あなたを打(う)ち負(ま)かすために、その力と欺瞞(ぎまん)のすべてを用います。しかし、神様の訓練があなたを強(つよ)くし、この恐ろしい敵に対してさえも、皆さんの内に働いている神の力によって、勝利することができるのです。

第二にヘブル書は、「また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節(かんせつ)をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」と言います。これは、自分の力と能力の限界(げんかい)を認識しなければならないということだと思います。私たちが神の訓練によって試(ため)され、疲(つか)れ尽(つ)くしたなら、より大きな挑戦(ちょうせん)を求めるべきではありません。私たちは、常(つね)に最も困難な道を探(さが)す必要はないのです。パウロはコリントの信徒たちにこう言いました。「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(コリント10:12)」穴や石でいっぱいの道を選んではいけないのです。道によっては、他(ほか)よりも多くの妨(さまた)げや誘惑(ゆうわく)があります。だからこそ、賢明(けんめい)に、慎重(しんちょう)に道を選んでください。自分自身の長所(ちょうしょ)と弱点(じゃくてん)を知り、自分の道を適切に選んでください。詩編1篇が教えているように、「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着いてはいけません」。むしろ、忍耐を持って、主が与えてくださる訓練に励むべきです。「あなたの道を【主】にゆだねよ。(詩篇37:5)」「心を尽くして【主】に拠(よ)り頼(たの)め。自分の悟(さと)りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認(みと)めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:5-6)」

カテゴリー: 説教 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です