KASUMIGAOKA
2018/07/01 SERMON: 「信者の走るべき競走」 “A Race We Must Run”
TEXT: Hebrews 12:1-3
I. INTRODUCTION
へブル書11章で信仰の力を示した旧約聖書の人物の概観(がいかん)を見ました。そこに記録されている多くの信徒たちはユダヤ人の中でよく知られたのですが、ある信徒たちは名前さえ記されていません。その人たちは36-38節で言及されいる信仰のヒーローなのです。しっかりした信仰を持っているのに、彼らは「あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖(くさり)につながれ、牢(ろう)に入れられる目に会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣(つるぎ)で切り殺され、羊ややぎの皮(かわ)を着て歩き回り、乏(とぼ)しくなり、悩まされ、苦しめられ、———この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。」そして「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした」と39節で言います。彼らは信仰のために様々な苦しみを受けました。皆さん、どう思いますか。自分自身は信仰のゆえに苦しい目に会うようにに召されるなら、あなたはどのように対処するかを考えたことがありますか。でも、もしかしたら、現在の信者たちは信仰のために迫害される必要がないでしょうか。40節で「神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられた」というので、ほっとため息(いき)をつくかもしれません。しかし、その「さらにすぐれた」というのは、「もっと容易(ようい)な」、「もっと安楽(あんらく)な」という意味ではありません。主イエスは、弟子たちに、「世にあっては、艱難(かんなん)があります」とおっしゃいました(Jn. 16:33)。実は、私たちが信仰のゆえに反抗(はんこう)に会っても、どのように生きるべきかを学ぶために、この昔からの信徒たちの一覧表(いちらんひょう)はへブル書に記されたのです。彼らの模範的な生き方から、私たちはどのようにして、神様がお与えになった目的を果たすことができるかを学べます。
このへブル書12章の初めのところから、クリスチャン人生は各信者が走るべき競走と比較されています。使徒パウロもしばしば運動競技(うんどうきょうぎ)の比喩(ひゆ)を用いて、忠実なクリスチャンがこの世に生きている限り勤勉(きんべん)に努力すべきということを示したのです。例えば、ピリピ人への手紙、3:13—14でパウロはこう言います。「ただ、この一事(いちじ)に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて、上に召してくださる神の栄冠(えいかん)を得るために、目標を目ざして一心(いっしん)に走っているのです。」だれでも、クリスチャンとして生きるために奮闘的(ふんとうてき)な努力や熱心さが必要です。怠(なま)け者(もの)や不注意、または軽率(けいそつ)な者はクリスチャン生活にふさわしくない者です。今日の箇所は、神様が私たちの前に置かれた目標に達するために、ひたすらに努力するように促(うなが)しているのです。これこそ、すべてのクリスチャンが走るべき「競走」です。でも、どのようにしてその目的を達成することができるのでしょうか。どのように、自分の前に置かれている競走を走るべきなのでしょうか。三つの面で自分の準備をしなければなりません。まず、自分の心と意志の準備する必要があります。それは、知的、または精神的な準備です。二つ目の面は、肉体的な準備です。ある人々は、「自分の欲に仕えているのです」と聖書が言います(Rom. 16:19)。しかし、キリストに仕える者は自分の体(からだ)をキリストに従わせる必要があります。自分の体を信仰の心に従わせることは、不可欠の肉体的な準備です。そして三つ目の面は霊的な準備です。この競走を忍耐を持って走り続けるために勝利を得られた主イエス・キリストを注目しなければなりません。イエス様から目を離してはいけません。この霊的な心構(こころがま)えも必要としています。これらの三つの必要な準備を覚えて、へブル書12:1-3を見ていきましょう。
II. MENTAL, PHYSICAL, AND SPIRITUAL PREPARATIONS FOR RUNNING THE RACE
今日の箇所は次の言葉で始まります。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、...私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」「こういうわけで」という言葉は、11章で見た多くの信仰の例を振り向いて指しています。その旧約聖書の人物は、私たちが自分の競走を走っている時に思い出すべき「雲のよう」な証人たちの群衆(ぐんしゅう)です。ある学者たちは、大勢(おおぜい)の観客(かんきゃく)に満ちたオリンピック競技(きょうぎ)のスタジアムのイメージをもって、この雲のような群衆を、私たちより先に天に召された生徒たちの魂(たましい)のことと解釈します。つまり、天にいる聖徒たちがこの世界で頑張っている私たちを天国から見下(みお)ろして声援(せいえん)していると思われます。しかし、この箇所で用いられた「証人」と訳されたギリシャ語の言葉は「観客(かんきゃく)」ではなく、「証(あかし)する者」という意味です。へブル書11章の中で示された昔の信者たちは、彼らを支えて、助けてくださった神に対する証(あか)しによって現在の私たちを励ますことができるのです。こういう風に、昔に競走を信仰によって成功に走った信者たちが、私たちも自分の競走を走るための心構えが出来るように助けてくれるのです。
どのような競走であっても、ランナーは競走に挑(いど)むために大切な精神的な準備をしておいて走らなければなりません。競走を始める前から選手(せんしゅ)は、失敗することでなく、勝利を志(こころざ)してゴールに置かれた報いに注目しないといけないでしょう。それでは、昔の信仰深い聖徒たちの証しは、どのように私たちに助けてくれるんのでしょうか。その信者たちは、神を信じる信仰のゆえに、並外(なみはず)れた偉大なことができるようにされました。神様は普通の人々に恵みや、勇気、力などを豊かに与えることによって、彼らを整えてくださったのです。昔の信者たちの生涯の証しから、私たちは神様の支えと助けを認識し、励ましを受けます。私はクリスチャンになった時、昔の信徒たちの伝記(でんき)を読みました。他のクリスチャンが自分の信仰のゆえに、どれほど迫害されて、苦しんでいたかを考えてみると、私はちょっと思い煩(わずら)いました。「僕(ぼく)は平凡(へいぼん)な弱い人間に過ぎない。」と思いました。もし、キリスト信者として迫害されたとしたら、私はどのぐらい我慢(がまん)できるでしょうか。おそらく、諦(あきら)めて失敗してしまうかも知れないと思いました。実際に、だれも信仰のために苦しめられた場合、どのように対処(たいしょ)するかが分かりません。へブル書11章の信仰の例を見ますと、私たちとあまり異なっていない人々が見えます。しかも、彼らが迫害を忍び、あらゆる困難を乗り越えました。その普通の人々は、自分の信仰によって全能の神様と結ばれました。神によって彼らが整えられたので、競走の終わりまで走って勝利を得ました。神様がご自分に従うように召された人々は賢(かしこ)い、力強い人々ではありません。第一コリント人への手紙1:27-29を見てください。「神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下(みくだ)されている者を、神は選ばれました。すなわち、有(あ)るものをない者のようにするため、無(む)に等(ひと)しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇(ほこ)らせないためです。」私たちは、へブル書11章の偉大な信仰のヒーローの生涯を見ますと、彼らの弱点(じゃくてん)や失敗を見落(みお)としてはいけません。しかし、彼は不(ふ)完全(かんぜん)な者であるのにも関わらず、神は彼らを用いて、強めて、一人一人自分の走るべき競走の終わりまで走って、打ち勝つことが出来るように助けてくださいました。へブル書11:34で、「弱い者なのに強くされ、戦(たたか)いの勇士(ゆうし)となり」ましたと言います。彼らの中で働いている神は、彼らを強めてくださったのです。だから、「雲のように取り巻いている」この多くの証人たちの生涯を見ますと、強い励ましを受けるはずです。神様が昔の信者たちを強めてくださったと同様に、私たちをも強めて助けてくださる希望と自信を持つことができます。神様に応援(おうえん)される私たちは、「多分負(ま)ける」と思わずに、逆に「きっと勝(か)つ!」という心構(こころがま)えで走ることができます。昔の証人たちは、このように私たちが走るべき競走のために精神的な準備に手伝ってくれます。神様は、昔に競争を走る多くの信仰深い人々を強めてくださったように、信仰によって走る私たちも強めて成功させてくださいます。
へブル書12章の最初の節が示す二つ目の事がらは、私たちが、走るべき競走のために肉体的にも準備していなければならないということです。もちろん、へブル書は、どのように物理的な競走場で走るべきかを教えてはいません。かえって、どのような妨げにあっても、どんなに疲れていくとしても、日々の生活の中で信仰によって歩むように促しているのです。使徒パウロが自分の生涯(しょうがい)の終わりに近づいた時に、この「競走」についてこう書きました。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者(しんぱんしゃ)である主が、それを私に授(さず)けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕(した)っている者には、誰にでも授けてくださるのです」(2Tim. 4:7-8)。キリストによって召されて、私たちが信仰によって歩むべき人生は、楽(らく)な散歩(さんぽ)のようなものではなりません。「競走」に訳された原語の言葉は、「agwn」というギリシャ語の言葉です。英語の「Agony」いわば「極端(きょくたん)な苦悩(くのう)」という意味のある言葉がこのギリシャ語の言葉に基づいています。真剣(しんけん)に競走に走ろうとした人だれでも、競走がどれほど難しくて苦しい経験であるかを知っているでしょう。クリスチャンの人生にもそのような経験があります。信仰によって生きることは時々、肉体的な苦しを含めて辛(つら)い目(め)に会うでしょう。信仰によって歩むために犠牲を払う必要になるでしょう。例えば、貴重(きちょう)な時間、財産(ざいさん)、快楽(かいらく)、特権(とっけん)や権利(けんり)さえも犠牲にする場合があるかも知れません。さらに、友人や世間(せけん)の評判(ひょうばん)を失うかも知れません。しかし、それなのにもかかわらず、へブル書は、私たちの前に置かれている競走を走り、勝利に達(たっ)することは、一時的な不快(ふかい)や困難(こんなん)より重要なことであり、失ったどのようなものよりも、はるかに価値があると教えています。
へブル書12:1は、「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨て」なければならないと言っています。色々な物理的なもの、その実体は悪いではないことを知っています。けれども、物質的なものを欲(ほ)しがることは大勢の人々にとっては霊的な罠(わな)になりがちです。そして、多くな所有品(しょゆうひん)を手に入れるのなら、その持ち物は「重荷」になります。1節の「重荷」という言葉は原語で「余分(よぶん)の目方(めかた)」という基本的な意味があります。この言葉は人の余分の体重(たいじゅう)を意味する可能性もあります。余分の体重は走ることを妨げるでしょう。そのような重荷を競走に運んでいる人は速(はや)く走ることが出来ません。もっと速く走るためにその体重を減(へ)らさなければなりません。同じように、あなたが信仰によって生きることを妨げる「重荷」があれば、それを捨てなければなりません。自分の生活様式(ようしき)を調節(ちょうせつ)する必要があるかも知れません。ある人にとっては、もっと健康的(けんこうてき)な食生活(しょくせいかつ)が必要かもしれません。他の人にとっては、お酒を飲む習慣を変える必要があるかも知れません。他の人は、会社で働く時間を制限すること、または夜間(やかん)に快適(かいてき)な眠りを得ること、とか毎週安息日を注意に守ることを必要とするかもしれません。これらは、キリストにあって信仰によって生きるために必要であるかも知れません。これらは、霊的な競走を走るための肉体的な準備のいくつかの例です。
信仰による競走を走る能力を妨げる「重荷」の多くは、自制が欠けているからです。信仰とキリストに対する従順の生活を妨げるどのようなものであっても、みなは罪です。12:1で言うように、罪は私たちを「まつわりつく」ものなので、捨てなければなりません。ヨハネはその最初の手紙の中でこう書きました。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。...すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(じまん)などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去(さ)ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(1Jn.2:15,16—17)忍耐をもって私たちの前に置かれている競走を信仰によって走ることを妨げるものは、何でも捨てなければなりません。その競走をうまく走るために自制という肉体的な準備を必要としています。だから、あなたの走り方を妨げる「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨て」ておきましょう。だれも、勝手(かって)な罪深い欲望を運(はこ)びながら、クリスチャンとして信仰によって競走をうまく走ることができません。
私たちの前に置かれている競走を走るために準備しないといけない三つ目の方法は、私たちの霊的な焦点と呼ばれます。私たちはクリスチャンの競走を走りつつ、目をイエス様から離してはいけません。なぜこれが不可欠なのでしょうか。二つの理由があります。まず第一に、イエス様は、神の忠実性と御力を示す「雲のよう」な証人たちの中の一人だけではないからです。主イエスは他の信仰の偉大なヒーローと区別されたお方です。主イエス・キリストのみ私たちの注意の焦点が当たるべき方なのです。他の信仰深い証人たちは雲のような群衆として描写(びょうしゃ)されています。物理的な雲は数えきれない多くの小さい水の雫(しずく)からなっています。雲の中のただ一つの雫(しずく)を注目することができません。しかし、雲のような信徒たちの群衆と違って、私たちは、特にイエス様に注意の焦点を合わせなければなりません。なぜなら、イエス様は神の恵みと力について証(あか)しする証人(しょうにん)だけではなく、イエス様ご自身は競走に走る私たちのために与えられる神の恵みと力の源(みなもと)であるからです。イエス様こそ、「信仰の創始者(そうししゃ)であり、完成者(かんせいしゃ)である」からです。イエス・キリストこそ私たちの救いの根拠(こんきょ)であります。彼の十字架上の自己犠牲は私たちの贖いの代価になりました。イエス様の自己犠牲によって私たちは神様と和解(わかい)されているのです。ペテロの第一の手紙2:24で、「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と言います。へブル書12:2にこう書いてあります。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍(しの)び」ましたと。イエスは、他の誰にもできないことをなさいました。もちろん、イエス様以外にも、十字架につけらた人がいました。もしかしたら、イエス様より、もっと苦しい死に方を経験した人がいたかもしれませんが、それを証明することは不可能です。しかし、イエスは他の人間の誰も経験しなかったことを経験されました。それは、神様の前では全く無罪(むざい)だったのにもかかわらず、考えられないような十字架のはずかしめを忍びました。地震(じしん)や津波、嵐、また火災(かさい)など、多くの人が命を落とした大災害(だいさいがい)が起きてしまったら、「神様は不公平だ」と主張する人がいます。このような災害が起こる時は、人間がみんな悲しみます。しかし、それらの被害者(ひがいしゃ)は、神様の目には清(きよ)くて正しい、完全な人だとは言えません。実際には、「全ての人は、罪を犯したので、神からの栄養(えいよう)を受けることができない」、また、「義人はいない、一人もいない」ということを私たちは知っています。(Rom. 3: 23, 10) へブル11章の信仰のヒーローたちも含めて、これまで地球上で生きた人間の誰もが「堕落した者」、つまり、罪人として人生を歩みます。しかし、イエス様だけが違います。神様が、イエス様について、「これは、わたしの愛する子、わたしは、これを喜ぶ」とおおせられました。(Matt. 3:17) しかし、イエスが完全に正しく、無罪であるのにもかかわらず、イエスが自ら進んで、十字架のはずかしめを受けたのです。イエスにとっては、十字架で忍ばれたはずかしめが、肉体的な苦痛(くつう)より苦しいものでした。フィラデルフィア市のウエストミンスター神学校の私の恩師(おんし)の一人、「ヒューズ先生」が、こういうふうにおっしゃいました:“It is important to recognize that the shame of the cross, where Christ bore the sins of the world, is something infinitely more intense than the pain of the cross. Others have suffered the pain of crucifixion, but he alone has endured the shame of human depravity in all its foulness and degradation.” (Comm. on Hebrews, p. 525) 「十字架の痛みよりも、十字架のはずかしめの方がはるかに苦しいものだという事実を認識することが重要だ。十字架を通してイエス様が世界の罪をご自分の身に負(お)われたのだ。十字架の痛みは、他の人にも経験されたことがありますが、イエス様のみ、人間の堕落のはずかしめを、その腐敗(ふはい)と汚れの極度(きょくど)において忍ばれたのです。」神様が私たちの前に置かれた競走を走ろうとする間、私たちの力と霊的な支えの源であるイエス様を見つめていなければなりません。私たちの勝利の希望はイエス様の完成されたわざに基づいています。
しかし、競走を走りながらイエス様から目を離さない理由がもう一つあります。それは、イエス様が競走の終わるところで私たちを待っておられるからです。競走のゴールで、神の御座の右に着座(ちゃくざ)しておられるイエス様が、私たちを迎え入れてくださいます。(v.2; cf. 1:3) 御座に着座しておられるのは、この世での使命をもう既(すで)に果たされているからです。ヨハネの福音書19:30で、イエスが霊をお渡しになり、十字架上で死なれた時に、最後の言葉が記録されています:「完了した!」イエスの完全な贖いのわざに、何も付け加える必要がありません。何も付け加えることができません。最後まで競走を走り続けようとしている間に、痛みや苦しみを受け、また、人から拒絶(きょぜつ)や迫害さえされるかもしれません。しかし、イエス・キリストは、もっと苦しいことを経験されました。しかも、それは私たちのためでした。イエスは、罪と死から私たちを救うために、「はずかしめをものともせずに」十字架を忍びました。イエス様がご自分のレースを終え、今は私たちを待っておられます。だから、「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗(はんこう)を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(12:3) イエスは、私たちのために、もうすでに、競走に打ち勝ったのです。
III. CONCLUSION
皆さんは、神様があなたがたの前に置かれた競走をどのように走っているのでしょうか?毎日走るべき競走のために、精神的に、肉体的に、また霊的に備える方法を覚えておいてください。まず、神様の真実と力を証しする「雲のように取り巻く多くの証人たち」を覚えておいてください。彼らと同じように、皆さんも、忍耐を持って競走を最後まで走り続けることができます。第二に、効率(こうりつ)よく競走を走ることができるように、あらゆる必要な手段を講(こう)じなさい。「重荷」となっている、この世の欲とまつわりつく罪を捨てなさい。第三に、私たちを自由にするために、罪の代価を払われ、私たちのために勝利を得てくださったイエスから、目を離さないでいなさい。忍耐を持って走り、ゴールについた時キリストからの称賛(しょうさん)を待ち望んでいなさい。そうすれば、あなたにも主イエスは、「よくやった。良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでください。」と言われるでしょう。(Matt. 25:21)