キリストのゆえに受けるそしり

KASUMIGAOKA — The Lord’s Supper  
2018/06/17 SERMON: “Bearing Reproach for Christ” 「キリストのゆえに受けるそしり」  
TEXT: Hebrews 11:24-26   

I. INTRODUCTION イントロダクション

ヘブル書11章は、神様に対する信仰の意味と重要性についての偉大な聖書箇所として愛されています。第1節の信仰の定義は、よく引用される箇所です。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」このやや抽象(ちゅうしょう)的な定義は、その直後で聖書の中で信仰に歩んだ人物の具体的な例によって説明されます。その人物とは、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーセです。彼らの人生は、ご自分自身を彼らに啓示された神様に対する信仰のゆえに、完全に変わりました。彼らの人生は、生ける神に対する本当の信仰がどのようなものであるかを示しています。彼らの人生は行動を伴う真の信仰を示すのです。ヘブル書は、はるか昔の聖徒たちによって示された信仰は、今日神様がご自身の民にお与えになる信仰となんら変わりがないと語ります。もし皆さんが信仰によって神様に信頼を置くなら、神様ご自身が皆さんの人生を変えてくださるのです。

前回この11章を見たときに、私達はモーセの人生の物語について読みました。その中で、今日特に注目したい特定の表現があります。なぜなら、その箇所は時代錯誤(さくご)のように聞こえるからです。その箇所とは、26節のキリストに関しての箇所です。この節は、モーセの信仰が何らかの形でキリストと結びついていたことを示しています。しかし、モーセはイエス・キリストの誕生の1400年前に生きていた人物です。なぜヘブル書は、モーセは「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。」と言っているのでしょうか。モーセの信仰と、はるか後(のち)に辱(はずかし)めと十字架の屈辱(くつじょく)とを受けられたキリストとの間には、どのようなつながりがあるのでしょうか。この節はとても重要な節です。なぜなら、もし私達がこの節を正しく理解すれば、旧約聖書の聖徒たちが、私たちが信じるのと同じキリストに、救いの希望を置いたということがわかるからです。言い換えれば、全人類にとっての救いの道はたった一つです。それは、キリストがご自身の死と復活によって開いてくださった道なのです

26節の表現をもっと詳しく見てみましょう。「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。」この節に関して、私達が答える必要のある問いが3つあります。第一に、「何世紀も後にならないとお現れにならないイエス・キリストについて、モーセが何を知っていたのか?」第二に、「『キリストのゆえに受けるそしり』という表現はどういう意味なのか?」そして第三に、「なぜモーセはこの辱(はずかし)めを受けることを選んだのか」です。

II. MOSES AND THE REPROACH OF CHRIST モーセとキリストのそしり

第一に、モーセがキリストについて知っていたことを考えましょう。ヘブル書の著者は、モーセが何らかの形でキリストを知っていたと考えていたことは明らかです。ヘブル書によれば、キリストはただお一人であり、このキリストは4:14で「神の子イエス」と呼ばれています。聖書に啓示されているのは、ただお一人のキリストで、「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」(ヘブル2:9)。しかし、モーセはどうやってこのキリストについて何か知ることができたのでしょうか。おそらく、キリストについてのモーセの知識の中には、口伝(くでん)によって何世代にも渡って祖先(そせん)から受(う)け継(つ)がれてきたものもあったのでしょう。例えば、モーセは、キリストが創世記3:15で約束された「女の子孫」であると信じていました。この一人のエバの子孫は、人間を罪と悲惨の状態に陥(おちい)れた蛇に勝利するのです。モーセはまた、地上のすべての民がアブラハムの「子孫」を通して祝福されるということを信じました。このアブラハムの子孫は、ユダヤ人と異邦人の両方に救いをもたらした救い主、イエス・キリストだったのです(cf. ガラテヤ3:16)。

しかし、モーセがキリストについて書いたいくつかの事柄は、神様の特別な啓示を通(つう)じてしか知ることができなかったはずです。モーセは、人類の贖い主について神様が彼に告げた約束を信じました。自分自身が死ぬ少し前に、モーセはイスラエル人にこの約束を伝えました。「あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞(どうほう)の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」(申命記18:15)。そして主はこうおっしゃいました。「わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる」(申命記18:18b、cf. 使徒7:37)。以上のように、モーセ自身の言葉を見ると、神様がその民を導き、世界中の人々に神の救いをもたらすために、救い主、すなわちキリストを送ってくださることをモーセが信頼していたのは明らかです。

今日において、私達は古代(こだい)のユダヤ人が持っていた将来のキリストについての希望を、モーセが書いた聖書の最初の5つの書から見ることができます。しかし、新約聖書もまた、神様がやがて送ってくださるキリストを信じるモーセの信仰を語っています。イエスさまご自身がヨハネ5:46でこうおっしゃいました。「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」これらの証拠から、神様が送ると約束してくださったキリストについて、モーセがたくさんのことを知っていたことは明らかです。モーセは自分の祖先(そせん)の証言を通して、そして神様が彼に与えてくださった特別啓示によって、キリストを信じていたのです。

次に、私達が考えるべき第二の問いは、「キリストのそしり」という表現の意味です。モーセ自信は神様が約束されたキリストを信じました。しかし、ヘブル書は、神のキリストがすべての人に歓迎されるわけではないということもモーセは知っていたと語ります。モーセは、キリストが多くの人によって苦しめられ、拒絶されることを知っていたのです。キリストは深い屈辱(くつじょく)を経験される。ヘブル11:26で「そしり」と訳されているギリシャ語の言葉は、「非難(ひなん)、侮辱(ぶじょく)、虐待(ぎゃくたい)、恥辱(ちじょく)、恥」を意味する言葉です。 26節の英語と日本語の両方の翻訳は、モーセがイエス様のゆえに耐(た)えた侮辱(ぶじょく)に焦点を当てています。しかし、元のギリシャ語の文章を見ると、イエス様ご自身がキリストとして経験された侮辱に焦点が当てられているのです。この節を直訳すると、次のようになります。「彼はキリストの屈辱(くつじょく)を、エジプトの宝物よりも豊かなものとみなしたからです。」ヘブル書は、モーセが「キリストのゆえに」忍耐した屈辱ではなく、キリストご自身が苦しまれた侮辱(ぶじょく)と虐待(ぎゃくたい)を強調しています。これらの2つの視点(してん)の違いが理解できるでしょうか。私たちの翻訳は、私たちがキリストに従うために捨てなければならないものについて考えさせますが、実際のギリシャ語本文(ほんぶん)は、キリストが私たちのために耐え忍ばれた屈辱について考えるように促すのです。ヘブル書は、キリストが自分のために経験してくださる屈辱(くつじょく)をモーセが理解していたと言います。モーセは、自分個人が経験した損失(そんしつ)だけを考えていたわけではないのです。 もちろん、キリストを信じる者は、彼に従うためにいくらかの損失や恥を受けるかもしれません。詩篇の中では、神様に忠実に従う者たちが、周りの不信者(ふしんじゃ)たちからの辱(はずかし)めや反対をどのように耐え忍んだのかを見ることができます。詩篇42:3はこう言います。「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中 『おまえの神はどこにいるのか』と私に言う間。」そして詩篇89:50は、主の忠実なしもべたちが、彼らの贖い主の苦しみをどのように共有(きょうゆう)するかが語られます。「主よ。心に留めてください。あなたのしもべたちの受けるそしりを。私が多くの国々の民のすべてをこの胸(むね)にこらえていることを。【主】よ。あなたの敵どもは、そのようにそしり、そのように、あなたに油そそがれた者の足跡(あしあと)をそしりました。」何世紀にもわたって、忠実な信者たちは、彼らの主イエス・キリストへの信仰と従順のために、そしりやあざけりに耐えてきたのです。にもかかわらず、私たちは、自分自身の恥や苦難(くなん)ではなく、キリストの苦しみに目を向けなけなければならないのです。測(はか)り知れない価値のある宝物は、私たちのためにキリストが受けられた苦しみです。モーセが黙想(もくそう)していたのは、自分のために主の救い主なるキリストがどれほどそしりを受けてくださるかということでした。モーセは、キリストが受けてくださるそしりを「エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。」私たちはいかがでしょうか。キリスト・イエスが私たちのために受けてくださった屈辱(くつじょく)や苦しみの偉大な価値を理解するのでしょうか。使徒パウロがピリピのクリスチャンたちにこう書きました。「しかし、私にとって得(とく)であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損(そん)と思うようになりました。 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」信仰によって、私達の価値観は変えられます。以前はとても価値のあるように見えたもの、私達の幸せに欠(か)かせないと思ったものが、今や重要ではなくなるのです。このような変化を、はるか昔にモーセも経験したのだと思います。モーセは、キリストが自分のために耐え忍んでくださる屈辱(くつじょく)が、エジプトのすべての財宝(ざいほう)よりも、はるかに貴重であることを理解するようになったのです。 26節についての第三の問いは、「なぜモーセが、エジプトの富を楽しむのではなく、キリストのために恥辱(ちじょく)を受けることを選んだのか」という問いです。25節はモーセが、はかない罪の楽しみではなく神の民とともに苦しむことを選んだと言います。モーセは、キリストに従い、この世でキリストの屈辱にともに与る道を選択したのです。神様は誰もご自身に従うことを強制はされません。モーセの場合、神の民に加わる前、彼はとても快適(かいてき)な人生を送っていました。しかし、モーセは、民の苦しみを共有し、キリストのゆえに屈辱を受ける道を選んだのです。なぜモーセは信仰の道、そしてそれがもたらす恥を選んだのでしょうか。なぜ私たちは、キリストに従うために、この世のあざけりに耐えようとするのでしょうか。ヘブル書が示す答えは、モーセが将来を見据(みす)えていたということです。「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」

モーセは、キリストを信じ従うすべての者に約束されている報いを求めていました。その報いは、この世の他の何とも比較(ひかく)できないほど価値のあるものです。それはヘブル書2:3が「こんなにすばらしい救い」と言っているものです。「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」(ヘブル2:9)。このイエス・キリストの勝利にともに与ることが、この報いです。そして、キリストが神の民のために設(もう)けられた「安息日の休み」(ヘブル4:9)に入ることでもあります。「彼に従うすべての人々に対してのとこしえの救い」(ヘブル5:9)の約束です。この報いは、キリストを信頼し、キリストに従うすべての者に約束されています。これは「はかない罪の楽しみ」、そして「エジプトの宝」よりもはるかに価値のあるものです。ペテロはこの報いについてこのように言っています。「また、朽(く)ちることも汚(けが)れることも、消えて行くこともない資産(しさん)を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。」(Iペテロ1:4-5)これこそが、モーセがキリストを信じる信仰によって受けるように約束された報いです。モーセはエジプトの豊かさに背(せ)を向け、パロの王女の息子と呼ばれる栄誉(えいよ)を捨てました。しかしそのかわりに、モーセは栄光の救い主のもとで、永遠のいのち、喜び、平安が与えられ、神の子どもと呼ばれる栄誉が与えられたのです。モーセは正しい選択をしました。

III. CONCLUSION 結論

このあと、私達は主の晩餐にともに与ります。このときは、「キリストのそしり」、すなわち私達のためにキリストが経験してくださった屈辱(くつじょく)と苦しみの重要性について考えるのにふさわしいときです。ペテロはIペテロ2:22-24でこう書いています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返(かえ)さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」キリストはご自身のためにではなく、私達のために苦しんでくださったのです。キリストが十字架の上で捧げてくださった体と血は、私達の身代わりとして捧げられたものです。このことによって、私達は神様の永遠の安息と祝福にともに与るのです。 そしてこの時は、神様が私たちの前に置いてくださった選択について考えるのにふさわしい時でもあります。はるか昔、モーセは神の御名によって、イスラエルの民にこのように迫(せま)りました。「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは【主】が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓(ちか)われた地で、長く生きて住む」(申命記30:19-20)。モーセは、キリストを信じ、キリストのゆえに恥を受けることすらも選びました。この選択こそが、いのちと祝福に導かれるものです。皆さんは何を選びますか?キリストに従うことを選びますか?キリストのゆえに「そしりをうけ、神の民とともに苦しむ」ことを選びますか?「自分の十字架を負って」キリストに従うことを選びますか。だれもこのことを皆さんに強制はしません。しかし、もし神様が従うように皆さんを召しているのであれば、本当にその御声を聞くべきです。モーセが聞いたように、そしてパウロが聞いたように、神様の御声を聞き、いのちを選ぶべきです。ご自身に信頼し、従う者に対してキリストが用意してくださっている報いを選び取るべきです。キリストは、私達が自分自身に死に、キリストのために生きるように私達を召しておられます。このことを奇妙(きみょう)に思われるかもしれませんが、真実なのです。イエス様は弟子たちにこうおっしゃいました。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」(マタイ16:25)。キリストは私達にいのちを与えてくださいました。みなさんはキリストのために何をするでしょうか。キリストを信じるでしょうか。キリストに従うでしょうか。

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