KASUMIGAOKA
2018/03/04
SERMON:“Jesus, Our Only Savior” 「唯一の救い主なるイエス様」
TEXT: Heb. 7:15-28
I. INTRODUCTION イントロダクション
私たちはヘブル人への手紙を数ヶ月にわたって学んできました。これまでの著者の主張について考えると、そこには明確なパターンがあります。ヘブル書の目的は、神の御子であるイエス・キリストの優越性(ゆうえつせい)を示すことです。たとえば、イエス・キリストは、神が人類に語った最後の「言葉」です。 「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(1:2)」「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」です(1:3)。」御子の栄光は神の御使いの栄光以上のものです。御子はモーセやヨシュアよりも優れた、ご自身の民のリーダーです。御子はアロンやレビ族の祭司よりも優れた大祭司なのです。神の御子であるイエス様は、この子孫を詩篇110:1で「私の主」と呼ぶダビデ王より、さらに偉大です。ダビデは確かに偉大な王でしたが、主なる神は「メシヤ」というダビデの一人の子孫に、王と大祭司の両方の職務を与えられるのです。王はこの世の国々の間に住んでいる限り、自らの民を導き、治めなければなりませんが、大祭司は民を神のもとにつれていく役割(やくわり)を担(にな)うのです。
先週私たちは、祭司であるレビ族に属(ぞく)していなかったにもかかわらず、イエス様が大祭司として仕えることができる理由を学びました。それは、イエス様が祭司である「メルキゼデクの位(くらい)」に属しているからです。メルキゼデク自身は、すべてのレビ族の祭司の祖先であるアブラハムよりもさらに偉大な存在(そんざい)でした。今日の箇所では、ヘブル書は、なぜイエス様が最も偉大な大祭司であるかを教えています。その結論(けつろん)は25節でこう示されています。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。」イエス様が、人類の完全な救い主として祭司の働きをどう成(な)し遂(と)げられたのかを、ヘブル書がどのように語っているのかを見ていきましょう。まず第一に、イエス様の新しい祭司職の必要性を理解しないといけません。なぜレビ族の祭司の働きは充分ではなかったのでしょうか。そして、どのようにイエス様の祭司の働きが成功(せいこう)したのか、すなわち全うされたのかを見ていきましょう。
II. THE FAILURE OF ISRAEL’S LEVITICAL PRIESTS
イスラエルに置けるレビ族の祭司の失敗
最初に気づくべきなのは、他の司祭たちが達成できなかったことを、イエス様が来られて達成されたということです。1400年の間、レビ族のアロンの子孫たちはイスラエルの祭司として仕(つか)えていました。祭司に関する律法は単純(たんじゅん)なものでした。モーセの兄であるアロンのすべての子孫は、祭司になる権利を持っていたのです。世代が下(くだ)るにつれ、このレビ族の祭司たちは幕屋で仕え、後にはエルサレムの主の神殿で仕えました。紀元前(きげんぜん)6(6)世紀(せいき)になると、バビロン人によって神殿は破壊(はかい)されましたが、後に再建(さいけん)され、祭司の仕事が再開(さいかい)されました。最後に、西暦(せいれき)70年になると、神殿は再び破壊され、二度と再建されませんでした。イスラエルのレビ族の祭司たちの働きは終わりを迎えたのです。しかし何百年にもわたる祭司の働きにもかかわらず、イスラエルの民は神から離れ、神の御言葉に背(そむ)いたのです。預言者イザヤはイスラエルとその祭司たちに対する神の御言葉を、イザヤ1:11-13で語りました。「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と、【主】は仰せられる。「わたしは、雄羊(おひつじ)の全焼(ぜんしょう)のいけにえや、肥えた家畜(かちく)の脂肪に飽(あ)きた。雄牛、子羊、雄(お)やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。もう、むなしいささげ物を携(たずさ)えて来るな。香(こう)の煙(けむり)−−それもわたしの忌(い)みきらうもの。新月(しんげつ)の祭りと安息日−−会合の召集(しょうしゅう)、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。」日々のいけにえをささげ、神の律法の「外側の」要件(ようけん)を満たす、神殿での祭司の働きにもかかわらず、イスラエルの民は贖われなかったのです。祭司たちの働によって、彼らは神の近くに置かれなかったのです。イザヤは29:13でこう書いています。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。」それから750年経っても、状況は改善(かいぜん)しませんでした。イエス様はイザヤの言葉を引用してユダヤ人の宗教指導者たちにこうおっしゃいました。「イザヤはあなたがた偽善(ぎぜん)者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬(うやま)うが、その心は、わたしから遠く離れている』」(マルコ7:6)。レビ族の祭司たちの中で、イスラエルに主なる神を知らせ、愛させ、神に仕えさせた者は一人もいませんでした。彼らは誰も祭司の務めを成功させることができなかったのです。これが、神様がご自身の御子を大祭司として特別に任命して送った理由です。
III. JESUS’ PERFECT SAVING WORK AS PRIEST
祭司としてのイエス様の救いの御業の完成 イエス様は、大祭司の働きを実行するために特別な任命を受けました。イエス様は、単に「肉についての戒めである律法」(16節)、すなわちアロンの子孫であることに基づいて祭司に任命されたレビ族の人たちと同じ形で祭司に任命されたわけではありませんでした。イエス様は、「朽ちることのない、いのちの力」(16節)という特別な任命を受けられた、とヘブル書は語ります。
この「朽ちることのないいのち」という表現はどういう意味なのでしょうか。人間のいのちを壊(こわ)すのは何でしょうか。なぜ私たちは、病気や悲しみ、痛みや怪我(けが)に苦しんで、弱くなり、最終的に死ぬのでしょうか。なぜ私たちのいのちは、滅びることで終わるのでしょうか。聖書は、私たちのいのちは罪によって滅びていると私たちに語ります。しかし、この点において、イエス様は私たちとは異なるのです。ヘブル書4:15はこう言います。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情(どうじょう)できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」この違いがどれほど重大(じゅうだい)なものか、理解できるでしょうか。イエス・キリストは、私たちと同じように、堕落した人間社会の中に住まわれましたが、罪につまずくことなく、父なる神を愛し、仕えられたのです。だからこそ、ヘブル書は、「朽ちることのないいのち」によってキリストは祭司になられたと言っているのだと思います。はるか昔のアダムの反逆によって、イエス様のいのちが堕落していたわけではないので、イエス様は「とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司」となることができるのです。イエス様は、悪を行うように誘惑するサタンのあらゆる試みに抵抗(ていこう)されました。愛する天の御父の義の道を捨てることを拒(こば)まれたのです。他の祭司が主張することのできない「力」をイエス様に与えたのは、その罪のないいのちだったのです。イエス様が大祭司の職務を完全に果たし、私たちの罪を贖い、多くの罪人を神との交わりに連れ戻すことがおできになったのは、イエス様の神に捧げられた心があったからでした。だからこそ、ヘブル書は、祭司に関する「前の戒め」が「弱く無益なため」(18節) 廃止(はいし)されたと言っているのです。罪深い祭司は罪人を神に導くことはできません。レビ人に関する律法に従って祭司になった人々は、その律法によって祭司の務めを果たすことが出来るように整えられませんでした。「律法は何事も全うしなかったのです」(19節)。しかし、イエス様は私たちの大祭司として仕え、私たちの罪を贖い、私たちを神の元に連れ戻すための備えをしてくださったのです。イエス様の特別な祭司への任命により、「朽ちることのない、いのちの力によって」、「さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。」とあるとおりです。これは、主イエスが大祭司として私たちを完全に救うことがお出来になる最初の理由です。
イエス様が完全な大祭司である救い主となることがおできになる第二の理由は、20-22節で説明されています。20-21節で重要な言葉が4回用いられており、22節にはそれに関連する言葉が出てきます。それは「誓い」(または動詞の形である「誓う」)です。 そして22節に出てくる、それに関連する言葉は「契約」という言葉です。ヘブル書は、イエス様が救い主としてご自身の務めを完全に果たすことがおできになったのは、この誓いの結果であったと言います。誓いは、イエス様の天の御父ご自身が、キリストの祭司としての務めを支え、祝福されるという主権的な約束でした。神様の臨在(りんざい)と御力がなければ、誰も神様に与えられた務めを全うすることはできません。イエス様の場合、「主に対して次のように言われた方の誓いがあります。『主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。「あなたはとこしえに祭司である。」』」(21節)。ヘブル書は後にこの「とこしえの祭司」の約束に再び言及しますが、この時点では、神様の誓いの本質を強調しています。これは神様の誓いであり、神様は決してその言葉を破ることはないのです!私たちが注目した次の言葉は、22節の「契約」という言葉です。契約とは、誓いと、通常(つうじょう)は何かしらかの特別な儀式によって結ばれる、二者間(にしゃかん)の合意です。この契約の中で、神様ご自身が、自分の契約を守ると誓われたのです。人間を罪の深みから救い出し、永遠のいのちと栄光にまで引き上げてくださるのは、神の契約の約束です。それは神の恵みの契約です。そして、イエス様は私たちの契約の代表として、私たちのための契約の要求(ようきゅう)を果たしてくださるのです。このような契約がどうして失敗するでしょうか。失敗しようがないのです。はるか昔、エレミヤはこの契約のことを預言していました。エレミヤ31:31-33にはこうあります。「見よ。その日が来る。−−【主】の御告げ−−その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握(にぎ)って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。−−【主】の御告げ−− 彼らの時代の後(のち)に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。−−【主】の御告げ−−わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」これは、イエス様ご自身が私たちのために保証してくださる契約です。イエス様は私たちの代わりに、要求される従順の条件を守ってくださるのです。イエス様は私たちの心に神の律法を書いてくださいます。すなわち、イエス様は私たちの思いと生活の中心にご自身の御言葉を置いてくださるのです。イエス様は、私たちが自分自身ではなくイエス様のみこころを行うための愛を与えてくださいます。私たちは、イエス様のみを私たちの神として認め、神様は私たちを、ご自身の愛する民として認めてくださるのです。以前の契約のように、この契約は人間の弱さや罪のために失敗(しっぱい)することはありません。イエス・キリストが、この契約の成功を保証してくださるのです。父なる神が、この契約が成功するという誓いをたててくださったのです。だからこそ、この契約は成功するのです。私たちの救いを確実にしてくださるのは、神の恵みの契約です。
イエス様が祭司の務めを完全に果たし、私たちを神に確実に導くことがおできになる第三の理由は、23-25節に示されています。ここで、ヘブル書は、イエス様が永遠のいのちをお持ちになっているという点に戻ります。イエス様は「とこしえに祭司」です。アロンの子孫であるレビ族の祭司たちは、民の罪を贖うことができませんでした。彼らの失敗の証拠は、実際にそのような祭司たちが大勢いたことからも明らかです。彼らはわずかな間生き、その後に死にました。死は罪の避(さ)けられない報(むく)いです。アロンの子孫である祭司たちのうちの「最も良い者」さえも、死によってその働きを終えたのです。「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。」私たちの大祭司であるイエス様は、過去2000年間(かん)ずっとそうだったように、今も私たちのために神との間をとりなし続けてくださっています。イエス様の祭司の務めは今日も続いており、後継者(こうけいしゃ)は決して必要ありません。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」イエス・キリストは、ご自身の民の罪の贖いを完全に成し遂げてくださった最初の祭司なのです。そして、私たちが必要とする最後の祭司であられます。キリストの他に祭司が必要ではありません。大祭司として主イエス・キリストが祭司の務めを私たちのために完全に果たしてくださったからです。
IV. CONCLUSION 結論
今日の学びをまとめて終わりたいと思います。なぜイエス様は、ご自身を通して神に来る者を完全に救うことができるのでしょうか。今日のヘブル書の箇所の教えを、次の3つのフレーズで要約することができます:第一にキリストの完全な義、第二に神の契約の忠実さ、第三にキリストの永遠のとりなしです。今日の箇所の最後の節も、この章(しょう)のはっきりした要約を与えてくれます。「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いの御ことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。」
いままでには多くの宗教があり、イスラエルでさえ、イエス様が来られる前には数(かぞ)え切(き)れないほどの祭司がいました。しかし、誰もイエス・キリストが達成されたことを成し遂げることはできなかったのです。このような宗教や祭司は、すべての人々が最も必要とするものを与えることはできませんでした。彼らのうちの誰も、民の罪を贖うことはできませんでした。彼らのうちの誰も、聖なる創造主なる神の御前に、人々を安全に連れ出すことはできませんでした。しかし、イスラエルの最初の祭司がモーセの律法に従って任命されてから1400年後、神様はご自身の御子を完全な大祭司、そして救い主として遣わしてくださったのです。皆さんがこの救い主を持っているなら、他は決して必要ありません。