KASUMIGAOKA
2017/06/04
SERMON: 「御霊によって整えられたダビデ」 “Equipped by the Spirit”
TEXT: I Sam. 16: 14-23
I. INTRODUCTION イントロダクション
第一サムエルの中で最も重要な登場人物の名前が、書の半分が過ぎるまで登場しないというのは、興味深く、驚くべきことです。先週見た、ダビデがイスラエルの次の王として選ばれ油注がれる話の中でも、ダビデの名前はその話の最後、16:13まで現されません。最初にダビデの名前が言及される箇所に注目しましょう。(1サムエル12b-13)「【主】は仰せられた。 「さあ、 この者に油をそそげ。 この者がそれだ。 」 サムエルは油の角を取り、 兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。 【主】の霊がその日以来、 ダビデの上に激しく下った。」ダビデの名前は、彼が油を注がれ、主の御霊によって力を受けた時に初めて言及されたのです。実際、聖霊によってダビデの名前は歴史の中で重要なものになりました。この理由で、神の御霊の働きとの関係の中で、ダビデの名前が初めて明らかにされているのだと思います。「主の御霊」によってダビデは召しを果たすことができたのです。今日私たちがダビデの名前を知っているのもこの理由によるのです。
16:13の後、ダビデの名前は第一サムエルの中で291回も登場します。ダビデの名前を見るたびに、私たちは神の御霊の力強い御業に基づくダビデの偉大さを思い起こすべきなのです。主の御霊はダビデに、神のご計画を実行に移すような大胆さをお与えになりました。ちょうど、新約時代に神の御霊が注がれ、キリストの使徒たちが働きへと遣わされる際の勇気が与えられたのと同じようにです。ダビデの物語は、神の御霊がどのようにベツレヘムの若い羊飼いを、国を治めるように整えていったかを記す記録です。御霊はどのようにそれをされたのでしょうか。どのように主の御霊は若いダビデをエッサイの羊小屋からイスラエルの王座へと導いたのでしょうか。ダビデの備えには幾つもの段階がありましたが、今日はその最初の段階を考えてみたいと思います。
II. DAVID’S INTRODUCTION TO THE ROYAL COURT ダビデの宮廷への紹介
今朝の聖書の箇所は、ダビデがサウル王の宮廷にどのように紹介されたかという不思議な方法を説明しています。もちろん普通は、イスラエルの一般市民が王様の前に出る機会はありません。私たちが日本の天皇やイギリスの女王のお茶の席に招かれることがありえないのと同じです。しかし、ダビデが王になるための備えは初めから聖霊によって導かれていました。その備えの最初は、サウル王の宮廷へと紹介されるというものでした。このダビデの備えの第一段階において、私たちが注目すべき3つの点があります。
A.まず第一に、ちょうど主の御霊がダビデの王の勤めへの備えを始めた時、同時にサウルが国を導くことを可能にしていた霊の助けが取り去られたということです。ダビデの人生において聖霊が臨在してくださることが、彼を王へと整えるものでした。そしてそれとは反対に、サウル王の人生を見る時に、彼から聖霊が取り去られたことが、彼の敗北を決定づけるものだったのです。サムエルによってダビデが油を注がれた瞬間から、「【主】の霊がその日以来、 ダビデの上に激しく下った。」のです。しかし次の節で、「【主】の霊はサウルを離れた」と語られています。神の御霊の霊的な励ましがなくなり、サウルは疑いと落胆の中に沈んでいきました。サウルの責任の重さは、神の御霊の助け抜きには負いきれるものではなかったのです。
神はサウルから助けを除かれただけではなく、彼をおびえさせる「わざわいの霊」を送られました。神はご自身のきよい御旨に従って、一人の人を立てられ、一人の人を取り壊されるのです。イザヤ書45:5-7で、主は後の偉大なペルシャの王クロスに関してこうおっしゃっています。「わたしが【主】である。 ほかにはいない。 わたしのほかに神はいない。 あなたはわたしを知らないが、 わたしはあなたに力を帯びさせる。 それは、 日の上る方からも、 西からも、わたしのほかには、 だれもいないことを、 人々が知るためだ。わたしが【主】である。 ほかにはいない。 わたしは光を造り出し、 やみを創造し、平和をつくり、 わざわいを創造する。わたしは【主】、 これらすべてを造る者。」
今日において、サウルの状態は「うつ」とか「精神疾患」と言えるような状態だったのかもしれません。しかしサウルの家来たちは王の精神的な苦しみの真の霊的な原因を認識していました。彼らは言いました。「ご覧ください。 わざわいをもたらす、 神の霊があなたをおびえさせているのです。」(15-16節)全てのリーダーは、彼らの成功が自分の肉体的な努力や知性によるだけではなく、神の御霊の助けと祝福によっていることを認識すべきです。それは私たちが学ぶべき一つ目の点です。
B.ダビデの備えから私たちが学ぶべき2つめのことは、ダビデに対する目的を果たされるために、神様が様々な異なる出来事や人間の計画を織り合わせて実行されるということです。これは神様の「摂理」と呼ばれる教理です。それから1000年後に使徒パウロがローマのクリスチャンへ書いた手紙の中にある通りです。「神を愛する人々、 すなわち、 神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、 私たちは知っています。」神の摂理について、今から言う3つの要素を考えましょう。まず、サムエルがダビデに次の王として油を注いだことを、ダビデの家族以外に誰も知らなかったということです。13節ではこう書かれています。「サムエルは油の角を取り、 兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。」ダビデの油注ぎの際には、ベツレヘムの長老たちすらその場にはいなかったのです。そしてダビデの兄弟たちは、彼らではなく小さいダビデをサムエルが選んだことを他の人には言わないだろうと考えられます。このダビデの備えの初期の段階で、サムエルが彼に油を注いだことはサウル王はまだ知らなかったのは明らかです。
第二に、ダビデには様々な「賜物」、つまり能力が与えられていたということです。そして彼は成長するにつれ、多くの技術を身に着けました。その中には、音楽家としての技術もありました。彼は上手な竪琴の演奏者になりました。そしてその技術はとても重要な意味を持ってきます。さらに、ダビデは若かったにも関わらず、いくさにおける彼の技術と力を既に示していました。18節ではダビデは「勇士であり、 戦士」と言われています。さらに、ダビデは「ことばに分別がある」とも言われています。言い換えるならば、ダビデは知恵と恵みによって語ったのです。使徒パウロがコロサイ4:6で私たちに教えているとおりです。「あなたがたのことばが、 いつも親切で、 塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、 一人一人に対する答え方がわかります。」神の摂理によって、これらの能力はそれぞれ、ダビデが王としての職務を果たす際に必要となっていくのです。
今日の箇所において示されている神の摂理の3つめの要素は、人々や状況が神によって用いられ、ベツレヘムの無名の羊飼いの名前が王の前で言及されたという事実です。サウルの精神的な苦しみに対して、家来たちに音楽による治療を提案しました。そして、サウル王はふさわしい音楽家を呼んでくるように命じました。イスラエルにおいてダビデだけが音楽家だったわけではありませんが、王の家来の中に、ダビデのことを知り、彼の音楽の技術やその他の能力に基づいてダビデを推薦した者を神様が置いてくださっていました。これはラッキーな偶然ではありません。神の御霊がこの複雑なご計画のすべてをまとめられたのです。そして最後に神はサウル王自身の心を動かされました。ダビデが王の前に来た時、「サウルは彼を非常に愛し」た(21節)とあります。宮廷へのダビデの紹介は、箴言21:1に教えられている真理の証拠です。「王の心は【主】の手の中にあって、 水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」神の摂理によって、ダビデはサウル王の元に導かれ、宮廷の音楽家となりました。21節はさらに、サウル王がダビデを彼の道具持ちにしたと語ります。しかしこれは後(のち)の出来事です。今のところ、ダビデはサウルの王家に仕え始めますが、サウル王のいくさについては行っていませんでした。
C.主の御霊がダビデを王へと整えた方法についてもう一つ注目すべきことがあります。そしてこの3番めのことはとても重要です。それは、神の御霊がダビデの道徳的な性格を維持したということです。これによって、ダビデは自尊心や貪欲や野心といった誘惑によって破滅することがなかったのです。歴史や文学は、このような欠点から多くの人たちの人格が破壊された例をたくさん紹介しています。ウイリアム・シェイクスピアは、マクベスという人物について有名な悲劇を書いています。マクベスは、彼が次のスコットランドの王になるという奇妙な「預言」を受け、彼自身はダンカン王の忠実な家来であったにもかかわらず、彼の妻がその預言を聞いて野心にかられます。夫婦は共謀して王を殺害し、簡単に言うとマクベスはその後、王になりました。しかし彼は結局、自分の霊をむさぼる罪によって破滅してしまうのです。聖書もまた、かつて忠実だった人が預言や誘惑によって殺人を犯してしまう話を記録しています。第二列王記8:13-15を少し見てみてください。この話の中で、預言者エリシャは神様によって「アラム」(現在のシリヤ)の首都ダマスコに遣わされます。アラムはイスラエルの敵国でしたが、エリシャはアラムの王の宮廷に仕えていたハザエルに知らせを持っていきました。エリシャはハザエルに、彼がイスラエルの人々に大変ひどいことをすると告げました。『ハザエルは言った。 「しもべは犬にすぎないのに、 どうして、 そんなだいそれたことができましょう。 」しかし、 エリシャは言った。 「【主】は私に、 あなたがアラムの王になると、 示されたのだ。 」 彼はエリシャのもとを去り、 自分の主君のところに帰った。 王が彼に、 「エリシャはあなたに何と言ったか」と尋ねると、 彼は、 「あなたは必ず直る、 と彼は言いました」と答えた。しかし、 翌日、 ハザエルは毛布を取って、 それを水に浸し、 王の顔にかぶせたので、 王は死んだ。 こうして、 ハザエルは彼に代わって王となった。』ハザエルはエリシャの預言を自分の裏切りによって成就しようとし、彼が信頼を寄せていた王を暗殺したのです。
良い、忠実な性格なように見える人たちの多くが、制御できない野心によってその性格が破壊されてきたのです。しかしダビデはそうではありませんでした。主の霊が彼に、その誘惑に抗う道徳的な力を与えられたのです。次の王として油を注がれた後も、ダビデは自分の賜物や能力を、忠実に他の人に仕えるために用い続けました。彼は牧場で父エッサイの羊を飼い続け、父親に仕え続けました。王家で仕えるようになってからも、サウルに逆らうことはありませんでした。サウル王が「わざわいの霊」によって弱り果てていたときも、ダビデは彼に王として従い続けたのです。この時、「神の霊がサウルに臨むたびに、 ダビデは立琴を手に取って、 ひき、 サウルは元気を回復して、 良くなり、 わざわいの霊は彼から離れた。」のです。(23節)ダビデの魂は聖霊の力によって強められていました。だからこそ彼は野心に食い尽くされることがなかったのです。ダビデはサウル王が生きているかぎり、へりくだって忠実な家来として彼に仕え続けました。ダビデは神に信頼し、神の道徳律法に従って生きたのです。ダビデは神様がご計画をご自身の方法でご自身の時に成就してくださることを、忍耐を持って待ちました。ダビデの心が神様に向いていた時はいつでも、悪い誘惑から彼は守られたのです。
ダビデが羊飼いから国のリーダーになるまでの冒険の話は、驚きに満ちた魅力的な話です。その中でも最も驚くべきは、ダビデ自身が、力、富、名声、個人の快楽といった誘惑によって破滅しなかったということかもしれません。主権的なみこころと目的によって、神様は「自分の心にかなう人(13:14)」であるダビデをイスラエルの王としてお選びになったのです。神の選びと油注ぎによって、ダビデは、1000年後に来て、神の民を贖い、治める、はるかにすぐれた「油注がれた王」の「型」となったのです。ダビデの人生は、驚くべき話ですが、本当の話です。そしてそれは、ダビデをふさわしい時に王の職務に整える、神の御霊の働きなしには起こり得なかったことなのです。
III. CONCLUSION 結論
今日見てきた聖書の箇所で主が私たちに教えておられることとは何でしょうか。まず第一に、明らかなことですが、神は私たちに教えておられるのは、神様の御言葉を守るために神様に常に信頼することができるということです。神のみことばは真理です。ダビデは神に信頼し、義の道からそれて行きませんでした。ダビデは「その日を摘め(カルペ・ディエム)」という信条には従わなかったのです。つまり、彼は自分自身の力によって自分を王にする機会を捕まえようとはしなかったのです。彼は罪の手段による自分の栄光や発展を求めませんでした。ダビデは単純に神の御言葉を信じ、神の道徳的な基準によって生き続けたのです。そして神は彼を祝福し、約束をお守りになったのです。私たちは神のみことばを守るために神に信頼し、忍耐深くあらなければなりません。
第二に、神は、私たちが人生においてしようとするすべてのことにおいて、聖霊の助けが必要であるということを教えておられます。イエス様は弟子たちにこう教えられました。「わたしはぶどうの木で、 あなたがたは枝です。 人がわたしにとどまり、 わたしもその人の中にとどまっているなら、 そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、 あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)そしてヨハネの15章の終わりで、イエス様はご自身の御霊を「助け主」として送ってくださることを約束されました(15:26)。ダビデが召しのために整えられるために主の霊が必要であったように、私達にも日々の責任を果たしていく上で、同じ「助け主」(聖霊)によって、整えられ、力づけられ、励まされる必要があるのです。私たちの人生の中に主の霊がいてくださらなければ、私たちは残り続ける、価値のあるようなものを何一つすることはできません。もしあなたがダビデのように、死んでからも残り続けるような実を結びたいと思うなら、御霊によって歩み、人生において御霊の実を求めなければなりません。それは「愛、 喜び、 平安、 寛容、 親切、 善意、 誠実、 柔和、 自制です。」(ガラテヤ5:22,23)
そして最後に、主は私たちに「機会」についてどのように応答するべきかを教えておられると思います。おそらく私たちの中で王になる機会のある人は一人もいないと思います(もしかすると間違いかもしれませんが・・・)。しかし確かなこととして、私たちには毎日互いに仕え合う機会があるはずです。もし私たちが御霊によって整えられていれば、一人一人に与えられている神からの賜物を用いて、上手に、喜んで仕える準備ができているでしょう。私たちは主イエス・キリストの御名によって、互いに仕え合うように召されています。名も無き若者でありながら王の王、主の主となるために油注がれたイエス様のことを覚えましょう。イエス・キリストが来られたのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、 贖いの代価として、 自分のいのちを与えるためでした(マルコ10:45)。このような態度をダビデの生涯の中にも見ることができるのです。そしてそれはイエス・キリストの中に全うされました。私たちもまたこのような態度を持つべきではないでしょうか。