どんな基準に従って生きるべきか

KASUMIGAOKA 2017/03/19
SERMON: 「どんな基準に従って生きるべきか」 “By What Standard?”
TEXT: 1 John 3:7-18

I. INTRODUCTION イントロダクション
現代の人間は「道徳的なコンパス」を失っていると言われることがあります。それが今日の世界の混乱や対立のかなりの原因であると言われます。世界のどこにいたとしても、コンパスは常に北を指します。もし、常に正しい方向、つまり従うべき道徳的に正しい方向を、常に、誤りなく指し示すようなコンパスがあれば、素晴らしいと思いませんか。人生は道のようなもので、私たちは子供の頃からずっと目的地を目指して、一番良い道を探そうとします。ある人はこのようなコンパスは必要ないと思っています。なぜなら、どのような「道」を通ったとしても、それは同じ目的地にたどり着く。それは「死」です。しかし、多くの人は、人生でどのような道を通り、どのような決断をしていくのかは重要であると信じています。クリスチャンも含め、ほとんどの人は墓より先の目的地があると信じています。「死」は私たちの道における一つの「トンネル」にすぎません。ダビデは詩篇23篇で死を「陰の谷」と呼びます。聖書は、私たちがその死というトンネル、谷から脱して、新しい場所にたどり着くと語ります。私たちの永遠の住まいという目的地です。もしこれが本当なら、永遠の幸せである神の御国を常に指し示す「コンパス」を持つことは有益でしょう。人間には、何が正しいこと、なにが良いことなのかということを正確に示す道徳的なコンパスが必要なのです。そのようなコンパスや「カーナビ」[Car Navi]がなければ、人間は単純に自分の「直感」に従うことになり、おそらく大変な混乱に陥るでしょう。私たちはどのように、人生で従うべき正しい「道徳的な道順」を見つけることができるのでしょうか。ヨハネは、神がこのような道徳的なコンパスを私たちに与えてくださっていると教えます。このコンパスを用いることで、私たちは人生において従うべき最も良い道筋を知ることができるのです。この道徳的なコンパスは、世界中のあらゆる国々のあらゆる人々が信頼できるものです。これははるか昔から正確で、今日においても信頼に値し、私たちの子孫にとってもずっと信頼できるものです。全ての人間に与えられているこの道徳的なコンパスとは、神の道徳律法です。「律法」ということばはヘブル語では「トーラー」という言葉です。このことばは、「道を示す」という動詞が元になっています。律法は、常に真理と良いことを指し示す神の道徳的なコンパスなのです。全ての人がこのコンパスに従うわけではありません。事実、誰ひとりとしてこのコンパスに完全に従ってはいません。このことが、今日の世界に見られる対立や道徳的な混乱の源になっているのです。3:4でヨハネはこう言います。「罪を犯している者はみな、 不法を行っているのです。 罪とは律法に逆らうことなのです。」私たちは罪を犯す時、神の律法を破っているのです。それは、神の道徳的なコンパスを無視することなのです。「罪」というヘブル語の言葉は、「的外れ」という意味です。私たちは神の義の道から迷い出て、立ち返らなければ、そのまま希望なく失われてしまいます。残念ながら、今日のこの世界のほとんどが、混乱し、失われているのです。
しかし、神の律法という道徳的なコンパスに完全に従った人間が一人だけいます。イエス・キリストです。あなたは、神の聖なる、祝福された永遠の目的地にたどり着くために人生を送りたいと思いますか。人生において正しい道を選びたいと思いますか。ヨハネが言うには、迷うこと無く神様のコンパスに従うにはどうすればいいか、イエス様が示してくださるのです。3:3でヨハネはこう書きます。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、 キリストが清くあられるように、 自分を清くします。」この短いヨハネの手紙は、私たちが正しい道を歩んでいることを保証するために書かれました。イエスキリストに信頼するすべての者に、励ましと堅い自信を与えるために書かれたのです。ヨハネは5:13でこう言います。「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、 あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、 あなたがたによくわからせるためです。」
それでは、どのように私たちは正しい道を歩んでいることを知ることができるのでしょうか。ヨハネは今日の箇所で二つの重要なことを語ります。まず第一に、7-10節でヨハネはこう語ります。「義を行う者は、 キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。」そして二番目に、11-18節でヨハネは、私たちが互いに愛し合うなら、私たちが正しい道を歩んでいることがわかると言います。目新しい教えではありませんが、ヨハネはこの二つのことを注意深く考えるように私たちに言うのです。ヨハネが義と愛について何を語っているか、考えてみましょう。

II. TWO EVIDENCES OF ETERNAL LIFE: RIGHTEOUSNESS AND LOVE
  [永遠の命の二つの証拠:義と愛]
7-11節を見て下さい。ヨハネは義を行うことについて何を語っているでしょうか。まずヨハネはこう言います。「だれにも惑わされてはいけません。」私たちは、クリスチャンを惑わそうとする人たちがいるのを注意しなければいけません。多くの人は、神の律法の命令ではなく、自分の助言に従うように促すでしょう。しかし私たちのコンパスは、神のみことばであるべきで、他人の助言であるべきではありません。もし誰かが神の律法を捨てるように説得してきたなら、その人を無視するべきです。ヨハネは福音書の中で(6:66-69)、大勢の弟子たちがイエス様から去ろうとした時に、イエス様は12弟子の方を向かれ、こうおっしゃいました。「まさか、 あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。 」 すると、 シモン・ペテロが答えた。 「主よ。 私たちがだれのところに行きましょう。 あなたは、 永遠のいのちのことばを持っておられます。」これは今日においても正しいのです。他の何者も、永遠のいのちにいたる道を示すことはできません。単なる人間の助言に従うために、神の御言葉を捨てるように説得されてはいけません。惑わされてはならないのです。
第二に、ヨハネはこう言います。「義を行う者は、 キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。」ここでヨハネは、神の目に「正しい」人は、単純に、神の律法を忠実に守る人であるということを言っているのだと思います。神は私たちに「人間を超えた」ような働きをすることを求めてはおられません。神が要求されるのは、神の律法に対する忠実です。十戒に要約された律法に対する忠実なのです。申命記30:11-14で神様はイスラエルにこうおっしゃいました。「まことに、 私が、 きょう、 あなたに命じるこの命令は、 あなたにとってむずかしすぎるものではなく、 遠くかけ離れたものでもない。 これは天にあるのではないから、 「だれが、 私たちのために天に上り、 それを取って来て、 私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。 また、 これは海のかなたにあるのではないから、 「だれが、 私たちのために海のかなたに渡り、 それを取って来て、 私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。 まことに、 みことばは、 あなたのごく身近にあり、 あなたの口にあり、 あなたの心にあって、 あなたはこれを行うことができる。」しかし、問題は、神の律法が明確でむずかしすぎるものでなかったとしても、私たちがそれを守らないということです。エデンの園におけるエバのように、私たちは神のお考えよりも自分の考えが優れていると思いがちです。私たちは様々な理由で神に背きますが、神の命令が難しかったり、不明確であるということは決してありません。
第三にヨハネは、神のこどもと悪魔のこどもが、その行動によって区別できると語ります。「罪を犯している者は、 悪魔から出た者です。(8節)」しかし対照的に9節ではこう言います。「だれでも神から生まれた者は、 罪を犯しません。 なぜなら、 神の種がその人のうちにとどまっているからです。 その人は神から生まれたので、 罪を犯すことができないのです。」ヨハネが言っているのは、人はその性質に従って行動するということです。もし神のこどもなら、正しい行いをする。しかしもし初めから神に背く悪魔のこどもならば、罪に生き、罪に留まり続けることがその人にとっては自然なことなのです。イエス様はこの真理を、山上の説教の中で教えられました。(マタイ7:18-20)「良い木が悪い実をならせることはできないし、 また、 悪い木が良い実をならせることもできません。 良い実を結ばない木は、 みな切り倒されて、 火に投げ込まれます。 こういうわけで、 あなたがたは、 実によって彼らを見分けることができるのです。」人生における「実」は、その人の考え、ことば、そして行動を含みます。一人一人の人が、その人の本当の性質をあらわす「実」を結ぶのです。神を知り、神に従う人は、正しくて良い考え、ことば、そして行動を生み出します。しかし悪魔のこどもは、その性質によって、悪い実しか結ばないのです。
もしクリスチャンが全く罪を犯さないとしたら、この教えがクリスチャンに自信を与えるでしょう。しかし、クリスチャンは罪を犯すのです。では、この事実は私たちから希望を奪うのでしょうか。私たちが罪を犯すということは、私たちはみな悪魔のこどもなのでしょうか。この問いに答えるためには、ギリシャ語の動詞の時制の意味を理解するのが助けになります。7-10節の「罪を犯す」や「義を行う」という動詞は全て現在形で書かれています。ギリシャ語では、現在形は継続する動作をあらわす時に用います。ですからヨハネはここで、罪を犯し続ける人はクリスチャンらしくふるまっていないと言っているのです。これは本当ですね。もし私たちがキリストの弟子であれば、私たちは心をかたくなにし、神の律法を破り続けることはできません。むしろ、私たちが罪を犯す時、聖霊が私たちに罪を示してくださり、悔い改めへと導いてくださるのです。神のこどもと悪魔のこどもを見分けるものが悔い改めです。もしあなたが悔い改めず、キリストの御名による赦しを求めないなら、あなたはクリスチャンではありません。あなたは罪を犯し、それについて悲しみもしないのです。悔い改めの必要を見出さず、赦しの必要をも見出さないのです。もしあなたが悪魔のこどもであるなら、罪のパターンを繰り返し続けます。しかしまことの神のこどもは常に神に立ち返ります。その者は自分の罪を捨て、キリストの御名による赦しを常に求めます。もしあなたの生活の様式が義であるなら、あなたがつまづき罪を犯したとしても、神は再びあなたを上げてくださいます。詩篇37:23-24のダビデのことばを覚えましょう。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主はその手をささえておられるからだ。」もしあなたが神の道徳的なコンパスに従うなら、主はあなたを導き、正しい道にとどまるように助けて下さいます。その正しい道とは、永遠のいのちにいたる道です。ヨハネは10節でこう言います。「そのことによって、 神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。 義を行わない者はだれも、 神から出た者ではありません。 兄弟を愛さない者もそうです。」ここから、次のポイントに移りましょう。11-18節を見て下さい。
私たちが永遠のいのちにいたる道を歩んでいることが分かる2つめの方法は、私たちの他人との関係性を吟味することです。ヨハネは、もしあなたが神に道徳的なコンパスに従っているなら、兄弟を愛するはずだと言います。11節。「互いに愛し合うべきであるということは、 あなたがたが初めから聞いている教えです。」ヨハネは、クリスチャンの愛の実質について3つのことを教えます。今日はその1つめだけを考えたいと思います。まずヨハネは12-15節で、私たちの他者への愛は「自然な」愛情以上のものでなければならないと言います。神の道徳的なコンパスに従わない人も、もちろんある種の愛を経験することはできます。家族の中の一種の愛があり、男女の間にまた別の種類の愛があり、親友の間にもまた別の愛があります。しかしクリスチャンは、神を信じない者が持たないような特別な、「超自然的な」愛を持っています。クリスチャンは義を愛し、義の行ないをする者に対する特別な愛を持っているのです。この愛は自然な愛情以上のものです。これは聖霊の実なのです。
ヨハネはこのことを、カインとアベルの悲劇的な話によって説明します。この2人の兄弟は、互いに対して自然な愛情はもっていました。しかしカインはアベルを殺したのです。ヨハネはこの理由を12節で説明しています。「なぜ兄弟を殺したのでしょう。 自分の行いは悪く、 兄弟の行いは正しかったからです。」カインは正しさ、義を愛さなかったので、兄弟を殺したのです。カインは義に対して「中立」ではありませんでした。神の道徳律法を拒むすべての人と同じように、カインもまた神の道徳の基準を憎んだのです。創世記4:6-7で神はこのことをカインに警告しています。神様はこう尋ねられました。 「なぜ、 あなたは憤っているのか。あなたが正しく行ったのであれば、 受け入れられる。 ただし、 あなたが正しく行っていないのなら、 罪は戸口で待ち伏せして、 あなたを恋い慕っている。 だが、 あなたは、 それを治めるべきである。」もし私たちが神の道徳的な基準に従うなら、私たちは神に受け入れられ、悪い者からの大変な危険から守られるのです。カインは義を憎み、アベルは義を愛したのです。カインは神の道徳的な基準を拒んだため、自分自身の兄弟を愛することができなかったのです。神の道徳的なコンパスである律法が、私たちにどのように他者を愛すべきかということを示すのです。
この世はこの教えを好みません。多くの人は、クリスチャンから神の律法が正しく良いものであると言われた時に、激怒します。彼らの本質は、神の義なる基準に背いています。彼らは神の律法を憎んでいるのです。この理由で、ヨハネは13節でこう言います。「世があなたがたを憎んでも、 驚いてはいけません。」神の義なる律法を憎む者が、神を信じる者が律法を破る者を「憎んでいる」と主張するのは、皮肉です。私たちはクリスチャンとして、他人を憎むことはしません。むしろ、憎しみではなく、愛が私たちを動かすのです。もし神を愛し、罪に「失われている」人を愛するなら、私たちは人々に神の正しい基準という真理を伝えなければなりません。沈黙ではいけないのです。しかし私たちは自分の個人的な意見や先入観を世に宣べ伝えるのではありません。神の基準を世に述べ伝えなければならないのです。世の人々は神のみことばを聞かなければならないのです。     
III.  CONCLUSION
もし私たちが神の道徳的な基準に従い、神の義の道を愛するなら、私たちは互いに愛し合うようになります。もしあなたが義を愛し、他者を愛するなら、大いに励まされることができます。その愛は、聖霊があなたの人生の中に働き、永遠のいのちに至る道にあなたがいる証拠になるからです。ヨハネは14節でこう言います。「私たちは、 自分が死からいのちに移ったことを知っています。 それは、 兄弟を愛しているからです。」来週は、ヨハネがクリスチャンの愛について他に何を言っているかについて見たいと思います。今日の結論として、神の道徳的なコンパスがイエス・キリストを通してあなたを永遠のいのちへと導くということを覚えましょう。自信をもってそれに従いましょう。

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