KASUMIGAOKA 2017/02/19
SERMON: 「私たちには弁護してくださる方がおられる」
“We Have an Advocate”
TEXT: 1 John 2:1-6
I.INTRODUCTION ヨハネがこの手紙を書いた目的
他の聖書の箇所では必ずしもそうではありませんが、ヨハネは自分が書いたものの目的をその中で説明します。例えば、ヨハネの福音書の終わりの方で、「しかし、 これらのことが書かれたのは、 イエスが神の子キリストであることを、 あなたがたが信じるため、 また、 あなたがたが信じて、 イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)」とヨハネは語ります。ヨハネは、イエスが永遠のいのちを与える神の子キリストであることを人々が信じるように説得するため、福音書を書きました。そしてヨハネはこの手紙を書いた理由もその中で述べています。手紙の終わりのほうの、5:13で、ヨハネはこう語ります。「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」言い換えれば、ヨハネはクリスチャンたちに対して、救いの全き確信を与えるためにこの手紙を書いたのです。ヨハネはこのために、3つの点を強調しています。まず第一に彼はキリストの受肉の事実を強調します。当時、神の御子は実際には肉と血を持つ人間にはならなかったという誤った理論を広める者がいました。イエス様は人間の体と人間の性質を持っているように「見えた」にすぎないというわけです。これは「仮現論」と呼ばれる異端の始まりでした。ヨハネはここで、神の永遠の御子が実際に私たちと同じような人間になったと語り、この基礎的な事実が私たちの救いについての、しっかりした確信をあたえるのです。第二に、ヨハネは、私たちのクリスチャンとしての人生における新たな義を強調しています。クリスチャンは本当に、新しい命へと新たに生まれ、悔い改めと信仰と忠実の人生を歩むのです。ヨハネが語る三つ目のことは、クリスチャンが互いに愛し合う歩みについてです。まとめると、キリストの受肉を信じること、新しい義の人生、クリスチャンの愛の実践が、キリストにある救いの確信についての3つの基礎的な証拠なのです。
第一ヨハネ2章1-6節では、ヨハネはこの3つの証拠のうち、主に2番目のこと、すなわち義の人生について注目しています。個人的な義について、そしてその義と私たちの救いとの関係について、多くの誤解があります。ある人たちは、クリスチャンはイエス様を救い主だと受け入れた後には、ユダヤ人の律法学者やパリサイ人のように生き、聖書の中のすべての命令や掟をきちんと守らないといけないと考えます。初代教会で、ある者たちは、イエス様の血は「原罪」の罪を洗い流すことができるが、洗礼を受けたあと、その人は天国に入るためには神の律法の要求を全て守らないといけないと言っていました。中世においては、これに関してローマ・カトリックで、「告解」や「煉獄」の教義が生まれていきました。全てのクリスチャンは、教会の規則と秘跡に従うことで自らの義をうち立てないといけないとカトリックは教えました。しかし、私たちの永遠の救いは、そのような私たちの個人の責任や努力という細い糸によっているのでしょうか。
またある人たちはそれとは反対の極端に陥りました。彼らは、聖書の律法はクリスチャンにとってはもはやほとんど無意味であると教えました。キリストは私たちの罪の代価を支払ってくださったので、私たちはもはや神の律法を守る必要はないというのです。このように考える人達にとって、クリスチャンとしての人生は「のんき」なものになります。こうなると誰も真面目に神の掟を守る必要はなくなります。しかしヨハネが私たちに語ることを聞きましょう。「私の子どもたち。 私がこれらのことを書き送るのは、 あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」ヨハネはここで、父が小さい子どもに語りかけるように、優しさと思いやりをもって書いています。しかしヨハネの意図は間違えようがありません。「神の道徳律法を守ることに集中しなさい。神の家族として、あなたは様々なことをしてよいが、罪を犯してはならない!」これが第一のクリスチャンとしての責任です。
II. OUR RESPONSIBILITY TO LIVE A RIGHTEOUS LIFE
3-6節でヨハネは、クリスチャンがなぜ神の律法を守るように励まなければならないかについて、いくつかの理由を挙げています。まず3節で、「もし、 私たちが神の命令を守るなら、 それによって、 私たちは神を知っていることがわかります。」神の命令を守ることによって、私たちは自分が神を知っていることを証明しているのです。4節では、ヨハネは、神の命令を守ることによって私たちは、キリストへの信仰の告白を確認すると言っています。「神を知っていると言いながら、 その命令を守らない者は、 偽り者であり、 真理はその人のうちにありません。」神の命令を忠実に守る者は、イエス・キリストが救い主であり、人生の主であることを本当に知っている者です。ですから、神に従うように励み、神の律法を守るように励むことは、心が変えられ、新しいクリスチャンの人生を歩んでいることの証拠となるのです。神様はこのことをエレミヤ書31:33でこう約束されています。「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、 彼らの心にこれを書きしるす。 わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。」
神の律法を守る2つめの理由は、5節に示されています。「みことばを守っている者なら、 その人のうちには、 確かに神の愛が全うされているのです。」ヨハネは、真の愛は神から来て、神から学ぶものであると理解していました。4:10でヨハネは「私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。」神の愛が人の中で全うされるとき、その人は神のみことばを守るようになります。そして神のみことばを守ることによって、私たちは神と人への愛を現していきます。そして神のみことばを守る唯一の方法は、神への愛によって心から主に従うことです。神はそれ以下のことでは決して満足されません。これが神の命令を守る2つめの理由です。神がまず私たちを愛してくださったから、私たちも神を愛し、神に従うべきなのです。
私たちが神の律法を守るように励む理由の3つめは6節に示されています。「神のうちにとどまっていると言う者は、 自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」ここでヨハネが言っているのは、イエス様が義の模範であり、全てのクリスチャンはその模範に倣うべきだということです。イエス様の御父への従順は、単に言葉によるだけのものではありませんでした。それは心からの、無条件のものでした。5-6節でヨハネは「神のうちに」という表現を初めて用いています。これは信じる者とイエス・キリストとの霊的な結合を表す、とても重要な表現です。この発想は、ヨハネが1:7で「しかし、 もし神が光の中におられるように、 私たちも光の中を歩んでいるなら、 私たちは互いに交わりを保ち、 御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」というときに既にヨハネの中にあったのかも知れません。イエス・キリストとの交わりの中で、私たちは「光の中」を歩み、キリストのきよめの血を浴びるのです。私たちのいのちは、キリストを知ることによって変えられるのです。キリストのいのちは、私たち自身のいのちを貫き、浸透し、それによって私たちはイエス・キリストの命の中に入り、キリストの死と復活の結果に与ることができるのです。私たちが「キリストのうちに」あるとき、キリストの義が私たちに転嫁されます。このことによって、私たちはイエス・キリストを知るように召され、イエス・キリストが天の御父に、自ら進んで完全な忠実を示めす生き方をされたように私たちも生きるのです。イエス様はこのようにおっしゃいました。(ヨハネ4:34)「わたしを遣わした方のみこころを行い、 そのみわざを成し遂げることが、 わたしの食物です。」このことは全てのクリスチャンにとっても、その目標となるべきものです。
III. OUR ADVOCATE AND HELPER 私たちを弁護する方、助け主
ヨハネはクリスチャンが罪を犯さないようになるために、この言葉を書きました。イエス・キリストご自身が光を、愛を、そして私たちが神の命令を守ることができるようになるための模範を私たちに与えてくださいました。しかし、神の完全な律法を実際に守るのは、全てのクリスチャンの個人的な責任です。
しかし、イエス・キリストの救いの御業、贖いの御業は私たちの過去の罪を赦し、神の律法を守る手段を与えることで終わるものではありません。もし永遠のいのちを得るという希望が、私たち自身が神様のみことばを完全に守ることにかかっていたら、私たちは誰一人として成功しないでしょう。しかし神は驚くべき恵みによって、私たちがたとえ繰り返しつまずき、失敗したとしても、そのような私たちを助ける救い主をお与えになりました。神の目的は、私たちがキリストのうちにあって、霊的に、また道徳的に成熟していくことです。私たちは成熟していくことで、神様への完全で祝福に満ちた忠実を生きるのです。しかし私たちは失敗した時に絶望すべきではありません。1-2節でヨハネはこう言います。「もしだれかが罪を犯すことがあれば、 私たちには、 御父の前で弁護する方がいます。 義なるイエス・キリストです。」
注目すべきは、ヨハネ自身が、教会の尊敬され愛されたリーダーでありながら、人生の終わりに差し掛かる中で、神の裁きの座の前で「弁護する方」が必要な者たちの中に自分を入れているということです。全てのクリスチャンは、キリストが与えてくださる霊的な助けや励ましにもかかわらず、繰り返し罪に陥ります。究極的に言えば、永遠のいのちへの私たちの希望は、キリストに対する私たちの忠実さによっているのではなく、むしろキリストの私たちへの忠実さによっているのです。ヨハネは、私たちのクリスチャンとしての希望、すなわち救いを、揺らぐことのない基礎においているのです。それは選ばれた者を救うという神の主権的な意思です。
私たちは罪を犯す時、神の命令を破る時に、神の臨在の前で私たちを弁護してくださる方がいてくださいます。「弁護する方」と訳されている元のギリシャ語は、ヨハネ伝14:16, 26; 15:26; 16:7では聖霊をあらわすことばになっています。ヨハネの福音書で「助け主」と訳される言葉です。これは助けの必要な人を助けるように呼ばれた者という意味の言葉です。イエス様は私たちの助け主、私たちを弁護する方として隣に立ってくださり、助けてくださるのです。私たちが自分を守るために何もできないとき、私たちを守ってくださるのです。このことばの元のギリシャ語が受け身の形で書かれているということは重要です。つまり、誰かから助けを求められる方という意味です。このことは、私たちが自分の努力や能力に頼るのではなく、私たちがキリストに助けを求める必要があるということを思い起こさせます。残念ながら、私たちが罪に落ちるとき、私たちの第一の傾向は通常、「弁護する方」に助けを求めることではありません。エデンの園のアダムやエバのように、神に背いた時の私たちの最初の衝動は、神から隠れることです。私たちが背いた父なる神の不満に向き合いたいとは思わないのです。しかし、私達には、助けを求めることができる友、「弁護する方」がいるのです。実際、私たちは罪を犯した時、その人の助けを求めるべきです。なぜなら、そのとき私たちは、自分たちでは答えることができない「告発者」と対峙しているからです。黙示録12:10は、神に背くように私たちを誘惑する悪魔が、神の前で私たちを訴え続ける「告発者」でもあると言います。そして愚かにもその誘惑する者のわなに落ちてしまった私たちは、自分たちを弁護することはできません。私たちは有罪なのです。私たちは自分たちを弁護するのに何を言えるでしょう。しかし、私達には「弁護する方」がいてくださいます。私たちには、さばきの座の前にあって私たちとともに立ち、私たちを弁護してくださる助け主が与えられているのです。
では、どのようにしてその「弁護する方」は私たちを助けてくださるのでしょうか。ローマ書8:33-34では使徒パウロがこのように説明しています。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。 神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。 死んでくださった方、 いや、 よみがえられた方であるキリスト・イエスが、 神の右の座に着き、 私たちのためにとりなしていてくださるのです。」私たちには、とりなしをしてくださる力強い「弁護する方」が与えられています。この方に助けを求めるものは、もはや有罪にされることはありません。今日の箇所では2節で、この「弁護する方」がどのようにしてそのことを成し遂げられるかが説明されています。「この方こそ、 私たちの罪のためのなだめの供え物です。」これは、彼自身が私たちの罪のための刑罰の代償を支払ってくださったということです。コロサイ書2:14はこう言います。「(神は)いろいろな定めのために私たちに不利な、 いや、 私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。 神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」それによって、コロサイ書1:22にあるように、「今は神は、 御子の肉のからだにおいて、 しかもその死によって、 あなたがたをご自分と和解させてくださいました。 それはあなたがたを、 聖く、 傷なく、 非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」「こういうわけで、 今は、 キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」とローマ書8:1でパウロは言います。私たちには、父の御前で「弁護する方」、すなわち義なるイエス・キリストがいてくださるのです。神の愛する御子が、助けを求め、自分のいのちをそこに委ねる全てのクリスチャンのためにとりなしてくださるのです。あなたはおそらく失敗するでしょうが、この方はあなたを見捨てることはありません。喜びのときも悲しみのときも、勝利のときも敗北のときも、常にこの方はあなたのそばにいてくださいます。そして終わりには、天の父の御座の前であなたを聖く、傷のない者としてくださり、恵みの勝利の戦利品としてくださるのです。
IV. CONCLUSION 結論
ヨハネがここで書いていることを振り返るとき、私たちは自分自身にこう尋ねないといけないかもしれません。「今の人生が意味深い、実り多いものとなり、のちの命について安心できるという自信を持つことができるという理由を自分の中に見いだせるだろうか。」神の命令は私たちを欺いたり混乱させたりすることのない、生活の有益な道しるべを与えてくれます。しかしそれ以上に、神の律法は、全ての人間をやがて裁かれる神様の義の基準を示します。もし神様を知りたいと思うなら、神のみことば、神の律法を読み、思い巡らせてください。その完全な基準に従って生きることを自分の目的として下さい。それがクリスチャンとしての責任なのです。もしあなたが神なる主を愛するなら、神の命令を守りなさい。しかしあなたが失敗したとき、そして必ず失敗しますが、あなたとともに立ってくださり、とりなしてくださる「弁護する方」がいてくださることを知って下さい。あなたの望みは、その方にある安心です。個人の責任と、神の主権、そのどちらもが使徒ヨハネによってこの手紙の中で私たちの前に示されます。神様への愛によって、神様のみことばを守るように決心しましょう。しかしそれと同時に、神ご自身の変わらない愛に信頼しましょう。神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされたのですから。