KASUMIGAOKA 2017/1/29
SERMON: 「主が用意してくださった避け所」
TEXT: 詩篇46:1—11; エペソ人への手紙2:19—22
I. INTRODUCTION:
今日の礼拝が終わってから、午後に年次会員会議を持ちますね。この会議のために祈ったり、相談したり、報告を書いたりして、二か月間準備をしています。決算、予算、役割分担、報告、計画などを見ると、キリストの教会は、会社のように見えるかもしれません。しかし、キリストの教会は会社ではありません。聖書の中で、教会を描くために色々な比喩が用いられますが、会社の比喩は見えません。聖書によれば、教会はいったいどのようなものなのでしょうか。キリストの教会は、羊の群れにも、人間の体にも比較されています。しかし、教会を描くに、しばしば用いられる比喩は、「避け所」または「避難所]です。なぜキリストの教会は避け所と比べられているかを今日、考えてみたいと思います。
教会は、苦しんでいる人たちや、思い煩っている人たちのために、この世の多忙の中で、神様が備えてくださった休憩できる所です。毎週「安息日」と呼ばれた日に神様は、私たちを教会に集めてくださり、心の安らぎを受けさせてくださいます。私たちは、愛する兄弟姉妹とともに神様を仰ぎ見て、主イエス・キリストのみ名によって、「あわれみを受け、また恵みをいただき、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御坐に近づく」ことができるのです。それに、安息日にだけではなく、毎日、教会の人々は教会の共同体の中で、互いに助け合ったり、互いの重荷を負い合ったり、赦し合ったり、励まし合ったりすることによって、この世にある多くの苦難や誘惑から脱出し、霊的な安全を経験できるのです。
私は、キリスト教会を霊的な避け所として初めて経験した時、深い影響が私自身に与えられました。その時、私は英国にある「ラブリー」というキリスト教自習センターに行って、勉強していました。「ラブリー」という名称は、フランス語の言葉で、「避け所」と意味です。神学校や神戸神学館と違って、「ラブリー」で勉強している聖徒たちは、半日間外で畑で労働して、半日間勉強しました。皆は、勉強したい科目ばかり学びました。各生徒は、「ラブリー」に着くとすぐ、教師に会って、自分の興味のあることについて話し合った上で、読むべき本、聞くべき講義などを決めて、それから自由に勉強ができました。有名な大学からの先生も毎週来られて、特別公演会が持たれたのです。そして、毎日、外で働いている間も、自由時間にも、食卓を囲んでいる時も、夜遅くまで、生徒たちも、教師たちも、皆が学んでいる課題について話し合ったりしていました。他の学校と違って、「ラブリー」は、どのような人であっても迎え入れました。若者や大学生が多かったでしょうが、40代、50代の普通の人たちもいました。学校の教師も、音楽家も、芸術家も、会社員も、主婦も、労働者も「ラブリー」に集まって来て、一つのクリスチャンの共同体になりました。私の友達になったひとりの人は、オーストラリア人の俳優でした。もうひとりは、オクスフォード大学の詩人でした。もうひとりは、レンガ職人でした。「ラブリー」の教師たちは、ウエストミンスター信条の立場から教えていたが、生徒たちの考えや意見はめちゃくちゃでした。しかし、みんなは、互いに敬意を示し合って、色々な思想を比べて、個人的な意見を聖書の教えと比較することによって、だんだん同意するようになりました。みんなは、自由に質問を上げたり、自分の意見を出したりすることができました。それは、そのキリスト教自習センターは、その名称が言っているように、「避け所」だったからです。そのような共同体の中で、どのような人であっても、聖書を読んだり、自分の体験や社会の歴史を振り返って反省したり、他の信者と話し合ったりすることにより、「心の一新によって」自分が霊的に成長することができました。その時私は、使徒パウロがローマ人への手紙12:2に書いたような教会生活を味わったのです。そこでパウロはこう言いました。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」そのような教会の交わりの中で、聖書を中心とした生活を持って、人間関係を大切に保って、多くの人々がしっかりした信仰を持つように導かれるだろうと思いました。「ラブリー」すなわち「避け所」である教会は、本当に理想的なキリスト教らしい共同体ではないかと思いました。今もそう思っております。
それでは、まず、聖書の中で、どのように「避け所」という主題が用いられているかを概観してみたいと思います。非常に大切な聖書的な観念でございます。それから、キリスト教会は、どのような「避け所」であるべきなのでしょうかということも考えたいと思います。
II. AN OVERVIEW OF “SHELTER” AS A BIBLICAL THEME
A. 初めから、神様は人々のために、ある「避け所」を備えてくださいました。創世記2:8に、「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形づくった人を置かれた。」ここに書いてある「園」というヘブライ語の言葉は、大昔に「塀や垣で囲まれた土地」、すなわち「大切に守られる私有地」という意味でした。「エデン」という名前は、「贅沢」、または「豊富」とか「豊か」という意味でした。神様はアダムとエバを、この特別に守られた園の中に置いてくださいました。エデンの園は、聖書の中の最初の「避け所」の例でしょう。そこで人は自分の創造主なる神様に出会って、直接にしゃべることができました。しかし、罪に陥ってしまった人々は、エデンの園から追い出されました。
B. それに、神様は次に、避け所として「家族」を与えてくださいました。ひとりの男の人に、神様はひとりの女の人を連れて来られて、最初の結婚を定められました。その夫婦が神様に逆らって、エデンの中から出されても、その家族が「避け所」として残っていたのです。しかし、家族の幸せと安全も罪によって損なわれました。ところで、聖書の中で最初の「家」はどこに見えるかご存知ですか。それはカインとアベルの物語の中です。エデンから追い出されたアダムとエバは、自分の家族を風雨や危険にさらさないように、初めて家を「避け所」として建てなければなりませんでした。しかし家も家族も、すべての危険から人を守ることができません。聖書の最初の家は創世記4:7に言及されています。よく聞いてください。主はカインにこう言われました。「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」最初家のことを聞きましたか。戸口はもちろん、家の入口です。アダムは自分の家族のための「避け所」を建てたようです。しかし、「罪は戸口で」カインを待ち伏せしていると神様が言われました。家を出るにも、帰るにも戸口を通るでしょう。家族によって色々な危険から守られると人々が思うでしょうが、家族に囲まれても、罪から完全に守られません。アベルは兄弟によって殺されました。そしてカインは、家に入ることによって罪から守られませんでした。
C. 旧約聖書を読み続けると、避け所があっちこっちで見えます。激しい嵐と大洪水から自分の家族を守るために、ノアは箱舟を造るように命じられたのです。神様のおかしいと思われた指示に文字通りに従ってので、ノアとその家族は、箱舟という避け所の中で、大洪水から無事に守られたのです。
D. 創世記11によると、シヌアルという地域で人々は、自分の社会と文化を守り、前進させるために、大きな町を建てようとしたのです。その町は力強い避け所になると思っていました。4節で、「そのうちに、彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』」と言っていました。ご存知のように、彼らの計画はうまく済みませんでした。でも、自分たちをあらゆる敵から守るために、人々は町を建てて、丈夫な塀で囲んで守ろうとしました。現在、アメリカの新しい大統領は高い塀を建てることによって、その国を隣の国から守れるだろうと主張しています。しかし、大きな町も、丈夫な高い塀も、自分の民を完全に守ることができません。避け所としようとする町も、塀や塔も、全く不十分です。
E. しかし、神様が新しい避け所をアブラハムに教えてくださいました。神様はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれた故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。」それに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と言われました。すなわち、自分の土地も、家、または家族も、町も、国も、アブラハムが頼るべき避け所ではありません。むしろ、神様に頼らなければなりません。神様はご自分の契約をアブラハムとその子孫との間に立ててくださいます。アブラハムとその後に生まれる子孫が、神様に従って、主なる神様のみに頼り、神様を信じるのなら、神様は彼らの避け所になると約束されました。新約聖書のへブル人への手紙11:8—10にこう書いてあります。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」大抵の人々が安全な避け所とする地、故郷、家族、町、国、家さえも、アブラハムは、神様を信じて従うために捨ててしまいました。しかし、神様がアブラハムの避けどころになられたので、アブラハムとその家族は安全でした。
F. モーセの時代においても、モーセはその先祖アブラハムと同じように神様を信じて、神様に頼りましたので、守られました。神様はモーセの避け所になられました。モーセの時から、神様はイスラエルという民をご自分の国民として上げられたのです。前の十二部族を一つの国民として、その国民を支配するために、モーセを通して神様の律法を与えてくださいました。神様は、その民族の中に住んでおられました。イスラエル人は、神様が命じられたとおりに、神様の住まいとしての幕屋を造って、イスラエルの陣営の真中に建てたのです。主なる神様は、その真ん中の位置からイスラエル人を守って、モーセをとおして教えて、すべての必要を与えて、そして先導してくださいました。モーセの時から、イスラエルは神様の国民とされて、その民を治めるための律法も、神様を礼拝するための宗教的な規則も与えられました。ある意味で、モーセの律法も、いけにえをささげる礼拝の制度も、神様の国民なるイスラエルを安全に守るために与えられました。しかし、イスラエルの避け所は律法でも、礼拝でもありませんでした。アブラハムの時から矛盾なく教えられたことは、イスラエル人の避け所が神様だということです。申命記30:20に書いてあります。「あなたはいのちを選びなさい。…あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに、主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きてすむ。」
G. イスラエル人はアブラハムに約束された地に入り、その地が所有となりました。しかし、勝利と平和を与えてくださった神様から、羊のようによくさまよってしまいました。神様の代わりに回りの国の例にならい、自分の国を守るために回りの国のような王が必要だと思うようになりました。すると、神様が王を与えてくださいました。でも、やはり、ダビデ王でさえ、避け所になりえませんでした。詩篇33:16—17に書いてあるように、「王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも、彼らを生きながらえさせるために。」聖書を読めば、エデンの園の中から追い出された時から、人間が避け所を捜し求めていることが分かります。人々は、家族、家、塀に囲まれた町、力のある国、勇者なる王や強い軍隊などを避け所にしようとしたが、この世にある苦難や敵から脱出できる安全なところは見つかりません。真の創造主なる神様以外の避け所はありません。詩篇46に書いてあるように、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。」
これから、神様がどのように、ご自分の民、すなわち神様に頼る者たちのために避け所を備えてくださるかを考えてみたいと思います。
III. THE CHURCH IS GOD’S SHELTER FOR HIS PEOPLE
詩篇46篇が言っているように、神様ご自身はその民の避け所であると聖書が教えています。自然的な災害が起こった時も、神様がともにいてくださいますので恐れる必要がないと詩篇46篇に書いてあります。大震災があっても、恐ろしい津波、大きな火事や台風などがあっても、恐れないと詩篇の作者が言いました。それに、激しい戦争が起こっても、この詩篇の作者が確信を持って、「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」と言っています。真の主なる神様は、主権をもってすべての出来事を治めておられますので、この神様に身を避ける者は必ず守られます。それはダビデ王の体験とその証しでした。この世に生きている限り、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。…たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」目に見えない神様は、私たちととみにおられ、わざわいが起こっても私たちを見捨てられたわけではありません。ダビデは神様に救い出されたことが多かったでしょう。しかし、最後にダビデもその先祖と同じように天に召されたのです。その時も神様は信じている私たちの避け所です。ダビデは、神様の永遠の避け所について、詩篇23:6でこう言いました。「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
旧約聖書の信者たちは、大昔のノア、アブラハム、モーセ、ダビデなどのように、神様における、本当の避け所を見つけました。しかし、へブル人への手紙11:40に次の驚くべき言葉が書いてあります。「神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」すなわち、新約という終わりの時代において、神様は昔よりすぐれた「避け所」いわゆる「救い」を用意してくださったという意味です。昔の信者たちが待ち望んでいた救い主は今、この終わりの時代に全人類のために、救いの道を完成されました。その救い主は、主イエス・キリストであられます。この方こそ、エデンの園から追い出されたアダムとエバが待ち望んでいた避け所になりました。こういうわけで主イエスは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われたでしょう。 モーセの時代に神様がイスラエルを荒野の中を導いて、守ってくださったように、主イエス・キリストは今、ご自分の民を導いてくださり、あらゆる危険から守ってくださいます。ヨハネの福音書10:9, 14, 16で主イエスは言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」「わたしは良い牧者です。私は私のものを知っています。…わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。
わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」主イエスは、主を信じる者とともにおられ、導いて、守ってくださる方です。彼はわれらの避け所であられます。私たちがこの世にある危険と誘惑から、彼は守ってくださいます。最も恐ろしい危険な事からも、キリストがご自分の民を守ってくださいます。最も恐ろしい事は、聖なる神様のさばきなのです。正しい裁判官なる神様のみ前に召された時も、主に頼る者は安全な避け所があります。
主イエスは天国に上られるまえに、この世に残された弟子たちのために、他の避け所も用意したくださました。ヨハネの福音書14:16で主はこう言われました。「わたしは、父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主はいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」昔のイスラエルにおいて、神様が幕屋、それにエルサレムの宮をご自分のみ住まいとされたように、主の約束された聖霊がキリストの教会をご自分の住まいとされます。コリント人への第一の手紙3:16で使徒パウロはこう書きました。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」これは、何と驚くべき特権でしょう。キリストの御霊が教会の会衆を御住まいとされました。エペソ書2:20-22にも同じように書いてあります。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
マタイの福音書16:18で主は弟子たちに言われました。「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」その弱い弟子たちに、主イエスはこのすばらしい約束をお与えになりました。主は、ペテロをほかの弟子たちとともに組み合わせて、力強い宮、すなわちキリストの教会、をお建てになります。その教会は、聖霊の御住まいになり、死という敵さえも抵抗することができません。それは本当にすばらしい避け所ではありませんか。主イエス・キリストは、ご自分の弟子たちを組み合わせて、そのような教会をお建てになるように約束されました。私たちはキリストの教会に迎えられたのなら、生ける石として、その教会の壁に組み合わされたのです。教会の交わりに受け入れられた時、聖霊との交わりにも受け入れられました。主の教会に住んでおられる御霊は私たちをきよめて、あらゆる罪の誘惑を抵抗するように強めてくださいます。
IV. CONCLUSION
主イエスが霞ヶ丘においても私たちの間で、そのような教会を建てておられます。この教会は若くて弱い信者のための安全なところとして建てられています。しかし、若くても年をとっても、私たちは皆、教会という避け所を必要としています。この世には、あらゆる危険がありますが、キリストにあって、すなわち、その教会においているのなら、すべての危険から守られます。主は弟子たちに言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって、平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに、世に勝ったのです。」(Jn. 16: 33)死後の一番恐ろしい危険からも、主イエスが守ってくださいます。生きている間、私たちは毎日罪を犯すため、刑罰を天に貯えております。しかし、私たちに来るべきその刑罰を主イエス・キリストがご自分の身に受けてくださいました。キリストは、神様のさばきから私たちが脱出すべき避け所であられます。
私たちは皆、キリストにあって、聖霊の御住まいとしての教会に建てられます。この教会は神様の用意してくださった避け所です。神様のみことばを土台として、その真実を高く上げるのなら、この教会で多くの人々が救われ、主の教会に受け入れられるでしょう。それは確かに主イエスの教会の目的なのでしょう。それは霞ヶ丘教会の根本的な目的でしょう。今年は、この目的を忠実に果たすように努力しましょう。お祈りいたします。