十字架につけられ、死にて葬られたキリスト

KASUMIGAOKA   2016/10/16

Sermon: 「十字架につけられ、死にて葬られたキリスト」
    “Christ Crucified, Dead, and Buried”
Text: Matthew 27:31-61
  
I. Introduction
初代教会から使徒信条はキリスト教の神髄を言い表すために用いられています。この短い信仰告白には主イエス・キリストが教えられたことについて何も書いてありません。しかし、キリスト教の不可欠な真実として、主イエス・キリストの死は特に強調されています。「おとめマリヤより生まれ」と言ってからすぐ、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られた」と言っています。すなわち、主イエスのご誕生から葬られるまでの最も重要なことは、その十字架上の死です。キリストの教えと、慈悲深いわざ、模範的な生き方などは、尊重すべきでしょう。しかし、そのようなことより、使徒信条が強調しているのは、主の死です。使徒パウロは自分の一生の最も大切な仕事をまとめて、こう言いました。「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(1Cor.1:23)それに、「十字架のことばは、滅びに至る人々には、愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1Cor. 1:18) でも、すべての人々は亡くなります。いったいどうして主イエス・キリストの死は、そんなに重要な出来事なのでしょうか。今日マタイの福音書27章の箇所を呼んで、この質問について考えて行きたいと思います。        

II.THE SIGNIFICANCE OF JESUS’ DEATH

  マタイの記した詳細を見る前に、まず、主イエスの死の意義を考慮しなければならないと思います。マタイはこの福音書を二つの目的を持って記録したでしょう。一つの目的は、未信者たちに証しするため、すなわち伝道の目的でした。もう一つの目的は、信者たちを励ますためでした。両方の目的を果たすように、マタイは主イエスが本当にお亡くなりになったことを証明しなくてはなりません。初代教会の時から、キリスト信者は主の復活とその究極の勝利を知っているので、主の苦しい死は飛ばしがちでしょう。主の十字架より、その三日目によみがえられたことを心に納めて強調したいでしょう。しかし、マタイは主イエス・キリストの最期の苦しみと悲惨の状態を重んじて、十字架上の明細を忠実に記してくれました。それはなぜなのかと言えば、マタイの二つの目的を覚えて、両方の立場からキリストの十字架上の死を考えてみなければなりません。

  未信者の立場から考えてみれば、ナザレのイエスが本当に死んだかどうかを確かめなければならないことです。もし、この人は、確かに死んだのでなければ、ナザレのイエスに基づいたキリストの運動が継続する可能性が残るでしょう。ナザレのイエスが生きている限り、イスラエルの祭司長、律法学者、長老たちの社会的な地位を脅かす者です。でも、そのキリスト運動の指導者、ナザレのイエスの死を確かめることが出来れば、その弟子たちがみな臆病になり、散らされて、すべては元どおりになるはずでした。だから、主イエスの敵の立場から見れば、彼の十字架上の死をぜひ確かめるべきことです。でも、敵でない未信者にとっても、もしイエス様は、その敵に負けて、単なる強盗のように、木に付けられて、そんなに惨めな死に会ったのなら、彼が神様に喜ばれるキリストであることは考えられないでしょう。未信者の立場から考えて見れば、イエス様が本当にこのように死なれたかどうかということは非常に有意義な問題でしょう。

 他方では、主イエスの弟子たちの立場から見れば、主の十字架上の死は、彼らの夢の終わりをもたらしたのです。自分たちの力と勇気が全く不十分であることが分かりました。主イエスが逮捕された時、弟子たちはみな主を見捨てて、散り散りになって逃げました。弟子たちの最後の希望は、主イエスの超自然的な力に置いたのです。しかし、彼らがすべての希望を置いたこの主イエスは、十字架上で多くの目撃者の目の前で、ののしられて、あざけりと苦しみのうちに息を引き取りました。弟子たちは絶望のどん底に陥ってしまいました。ルカの福音書24:19-21を読めば、彼らの絶望は次のような言葉で描かれています。「この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」主の弟子たちはすごく失望しました。しかし、主イエス・キリストはこれらのことをすべて、前もって預言されました。マタイ伝16:21に書いてる通りです。「その時から、イエス・キリストはご自分はエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」また、20:18でも同じように、弟子たちに説明してくださいました。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司ちょ、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」実は、主はまず死ななければ、真のよみがえりはあり得ないでしょう。ですから、信者たちは、まず、主イエス・キリストが他のすべての人間と全く同じように亡くなられた真実を認めなければなりません。イエス様は死から救い出されたわけではありません。たとえば、亡くなる少し前に、イエス様は十字架からおろされて、友達に元気を回復させられたわけでもありません。本当に亡くなられたイエス様のいのちを回復させたのは、人の能力ではなく全能の神様の御力です。 それでは、イエス様が本当にお亡くなりになりましたと言う事実を証明するために、どのような証拠を記録したのでしょうか。

III. MATTHEW’S EVIDENCE FOR JESUS’ DEATH
イエス様が本当に亡くなられたことを証明するために、マタイは証拠の三つの種類を書き記したのです。まず、イエス様の肉体的な弱さと無力な状態を示す証拠が書いてあります。ローマの法律に従って、十字架上の死刑を宣告された犯人は死刑の場所まで自分の十字架、少なくともその十字架の横木、を運ばなければなりませんでした。しかし、ひどいむち打ちをすでに受けた主イエスは、ご自分の十字架の横木をゴルゴタという所まで背負うことが出来ないほど、ご体が弱くなったようです。だから、兵隊たちは、関係のないシモンというクレネ人を選んで、イエス様の十字架をむりやりに背負わせたのです。ご自分の十字架を背負うことが出来なかったイエス様は体力をもうすでに使い尽くしてしまいました。そして、死刑を執行されるべきところにつくと、彼らはイエス様に苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしました。そのぶどう酒が人の痛みを弱めるために提供されたとある学者は思います。ほかの学者によると、苦みを混ぜたぶどう酒は毒だったそうす。しかし、主はそれをなめただけで、の飲もうとはされませんでした。イエス様はご自分の受けるべき苦しみを鈍くしたくもないし、自殺しようともされませんでした。ご自分の弱い、むち打たれた体で、痛みと苦しみに満ちた、ひどい死刑を受けられたのです。その死刑執行について、マタイは35節で、「こうして、イエスを十字架につけてから、、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分けそこにすわって、イエスの見張りをした。」と書き記しました。その時代の人々は、どのように手のひらに釘を打たれることによって犯人が十字架につけられるかを知ったはずです。両手にそんなにひどい傷をつけられて、それによって十字架にかけられたのなら、元気な人は何時間生き残るかが分かりません。主イエスの場合は、午前9時から午後3時まで十字架にかかっておられたそうです。6時間ほど、体の弱くなったイエス様はその痛みの極端を耐え忍ばれました。ついに、46節に書いてあるように、「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ セバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」だれかが海綿にすいぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエス様に飲ませようとした。そして、「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」と50節に書いてあります。その簡単なことばで、体力を使い尽くしたイエス様の死は、マタイに記されたのです。でも死なれても、イエス様の死体はすぐ十字架から取り降ろされたわけではありませんでした。むしろ、ふたりの強盗が亡くなるまで、主の体が十字架にかかっていました。実は57節に書いてあるように、「夕方になって」から、主の御体は十字架から下げられて、埋葬のためにアリマタヤのヨセフという人の手に渡されました。ヨセフはその御体を取り、「きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しいはかに納めた。墓の入り口には大きな石をころがしかけて帰った。」とマタイは書き、主イエス・キリストの地上の人生を結びました。主イエスはすべての人々と同じように最後に死んでしまわれたのです。

主イエスは本当に亡くなられたことを証明するために、マタイはほかの証拠も記してくれたのです。多くの目撃者は主イエスの最期までその十字架上の苦しみを見つめました。その目撃者はみんな、イエスが本当に死なれたことを証言することが出来るでしょう。その目撃者の大部分は主イエスとその弟子たちに反対する敵でした。まず、イエスの死刑を執行する責任を持った兵士たちは、十字架につけたイエス様の最期まで見つめていなければなりませんでした。それに、イエス様の右にも、左にも別な十字架につけられた強盗どももいました。エルサレムへの道を行く人々も、十字架にかかっておられるイエス様を見ると、イエスをののしって言いました。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。 もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」彼らは主イエス様の評判を聞いたでしょうが、主が本当に神様の送ってくださった救い主キリストであることを全然信じませんでした。殺されるように異邦人に渡したユダヤ教の指導者たちも、イエス様の十字架上の御姿を見つめていたようです。その死刑が適切に執行されることを確認するためにいたかもしれません。彼らも、十字架につけられたイエス様を見て、彼をあざけったり、軽蔑したりしていました。「近いうちにこのガリラヤ人の預言者が死んでしまう」と彼らは思ったでしょう。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。」もし、イエス様を救って、その十字架から取り降ろそうとする人々があったとしても、主イエスの見張りをしている目撃者は彼らに圧倒的に戦ったでしょう。しかし、主イエスを救おうと思った人は、一人もいませんでした。イエス様の亡くなられたことを喜んで見た人々は多かったのです。その目撃者は、マタイの記録した二番目の証拠の種類なのです。

   それに、主イエスの死を証明する三番目の証拠の種類もあります。この証拠は、超自然的なしるしです。天においても地においても、キリストの死の現実とその意義を示すしるしは見られたのです。本当に不思議なしるしでした。たとえば、45節によると、「12時から、全地が暗くなって、3時まで続いた。」それから、午後3時ごろ、ちょうど主イエスが亡くなられた時、「見よ。神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けた。」すなわち、神様ご自身の聖なるお住まいと堕落した人間を区別するために、神様が定められた障壁はキリストの贖いによって取り除かれたという意味です。それは特に神殿で働いた祭司長に与えられたしるしでした。でも、もう一つのしるしが与えられました。51節の後半に記されています。「そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。」この最後のしるしは何と驚くべきでしょう。十字架のそばにいるローマ兵士たちは、そのような不思議やしるしを見ると、恐れおののいて、言った。「この方はまことに神の子であった。」前は、生きておられるイエス様をあざけったり、ののしったりしていたが、今は、主がどのようにお亡くなりになりましたことを見ると、兵士たちの心は、突然変化されました。私たちが気づかなければならないことは、その兵士たちが過去形を使ったということです。「この方(イエス)はまことに神の子であった。」と言いました。すべての不思議なしるしは、キリストの死の現実を指しているのです。だれもその死を取り消すことが出来ません。マタイの福音書は、このような証拠をもって、主イエス・キリストが十字架上で本当に亡くなられたよいうことを強調しているのです。

IV. CONCLUSION

さて、主イエスの死から学び得ることは、何でしょうか。まず、イエス・キリストはご自分の約束をいつも守って、神様の預言を成就させてくださるということです。主イエスの死は、主の他の教えと預言を確認します。神様の御子なるキリストは死んでも、神様の聖なるみことばをお守りになります。ご自分が必ず十字架で死ぬと言われたイエス様は、ご自分が神様の御子だと主張されました。イエス様は言われたとおりに死なれたことはそのほかの主張をすべて確認します。主は、その十字架上の死によって、「まことにこの方こそ、神様の御子です。」と宣言されたのです。言われたとおりになさいます。主イエスは偽りを少しも言われません。

それに、第二に、主イエスはいのちと死の中で、死を選ばれたということです。ご自分の貴重ないのちを軽率に捨てたわけではありません。それとも、イエス様は全く絶望したからご自分のいのちを捨てたわけでもありません。イエス様は本当に良い人間でした。悩んでいる人々を助けたり、病気の人々や体の不自由な人々をいやしたり、悲しんでいる人々を慰めたり、迷った人々に正しい道を案内したりして、地上の生活を送っておられました。しかし、主は、「どうしても私は生き残るように努力しなければならない」とは思われませんでした。なぜなら、主イエスにとっては、この世界に生きることより、神様のみこころを行なうことがましだと思われたからです。主イエスは理由なしで死なれたわけではありません。主イエスは父なる神様が与えられた使命を果たすために十字架上の苦しみと死を耐え忍ばれたのです。この世にあるすべてより、イエス様は天におられる父なる神様のみこころを行なうことを目指しておられました。こういうわけで主は進んで十字架にかかって、苦しんで、そして最後に亡くなられたのです。へブル人への手紙12:2に書いてあるとおりです。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御坐の右に着座されました。」このみことばはキリストのみこころを明らかにしていると思います。そのキーワードは、「ご自分の前に置かれた喜び」ということばでしょう。私たちも、注意しなければなりません。ある人々は、この世にある「よろこび」、すなわち、職場における成功、家庭の幸せ、社会の地位、富などを骨折を折って追求しているので、彼らの前に置かれた喜びを少しも考えないでしょう。私たちは主イエスのみこころを覚えて、主の模範に倣うべきです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。...あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(Heb. 12:2,3)

   さて、聖書の二個所を呼んで終わりたいと思います。(1John 3:16)「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」キリストから愛の意味を学ばなければなりません。それに、コロサイ書3:1—3を呼んで終わります。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたは、すでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」以上です。祈りましょう。

カテゴリー: 説教 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です