失敗を自覚した時

KASUMIGAOKA   2016/10/02

Sermon: 「失敗を自覚した時」

“Dealing With Failure” 

Text: Matthew 26:69—27:10
  
I. Introduction

すべての人は罪を犯したことがありますね。でも、罪を犯した後、どのように自分の霊的な失敗を扱うのでしょうか。今日のマタイの福音書の箇所で、ふたりの人がそれぞれ自分の失敗を自覚した時、どのように扱ったかを教えているのです。マタイは主イエスの弟子ペテロとイスカリオテのユダとをよく比較します。前は、ペテロは主イエスを敵から防衛しようとしましたが、今日の箇所では、ペテロは「ナザレのイエスを知らない」と言って、完全に失敗します。ここで、マタイは、そのように失敗したペテロと、主イエスを敵の手に渡して裏切ったユダと比べているのです。ふたりともイエス・キリストに対する罪を犯して、弟子として失敗しました。しかし、彼らは自分の失敗を全く異なった方法で扱ったのです。彼らの体験から現在の私たちも、どのように自分の失敗を扱ったらいいかを学び得るでしょう。それでは、このふたりの人の体験を考えて行きましょう。

II. PETER’S GREAT FAILURE

まず、ペテロの大失敗を見て、その経験を分析してみたいと思います。 69-74節を見ますと、ペテロがどのように誘惑されたか、またなぜその誘惑に負けたかが分かります。主イエスが逮捕されて祭司長たちと全議会に連れて行かれた時、弟子たちはみんな逃げてしまいました。しかし、ペテロは遠くからその後を付いて行きました。主イエスが尋問されている間、ペテロは、大祭司カヤパの家の中庭でその裁きを待っていました。その間、「女中のひとりが来て言った。『あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。』」なぜ彼女がペテロの弟子としての身元に気づいてペテロに話しかけたのかが書いてありません。もしかすると、イエス様について何か知りたいから話しかけたかも知れません。しかし、ペテロは彼女に責められたと思って、急に自信を失って、答えて言った。「何を言っているのか、私にはわからない。」ちょっと前に命を賭けて主イエスを防衛しようとしたペテロは、女中に話しかけられるとすぐ、嘘をつき、敬愛するイエス様を否定して、失敗したのです。でも、ペテロの試練がそれで終わったわけではありません。ペテロは中庭の奥から引いて、入り口まで出て行きました。でも、そこでも、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言いました。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」ペテロは、また、それを打ち消したが、今度は、誓って、「そんな人は知らない」と言いました。それは二回目の否定でした。それに、もう一回、ペテロは、主イエスとの関係を否定してしまいました。そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言いました。この三回目に当たり、ペテロは、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めました。丁度その時、鶏が鳴きました。そこでペテロはイエス様の警告のことばを思い出しました。実は、主のおことばは警告だけではなく、ペテロについての預言でした。マタイ伝26:31-35を一応ご覧ください。

ペテロは他の弟子たちと主イエスともに主の晩餐に与って、主イエスの来るべき苦しみと死、すなわち主の贖いのわざを教えていただきました。主イエスの御手から主の晩餐のパンとぶどう酒を受け入れました。それから、皆はオリーブ山へ出かけているうちに、聖書に預言されたとおり、その弟子たちがみなイエス様のところから逃げて散り散りになると主は言われました。主のおことばを聞くと、ペテロは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」と言いました。ペテロは、確信に満ちたけど、自慢も結構あったようです。ペテロの心をよく知っておられる主イエスは、答えて言われました。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」しかしペテロは、自慢のゆえに自分の弱さを認めず、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と言いました。しかし、その夜、主イエスが言われたとおりに、やっぱりペテロは敬愛する主イエスを三回ほど「知らない」と言ってしまいました。鶏が鳴くのを聞くと、ペテロは主のおことばを思い出して、自分の高慢と自分の大失敗をすぐ自覚したのです。そこで、ペテロは中庭を「出て行って、激しく泣いた」と書いてあります。

 なぜペテロが失敗したかと言えば、四つの理由があったと思います。一つ目は、主の警告のことばを真剣に受け入れなかったからです。弟子たちは皆失敗してしまうと主が言われたのに、ペテロは、自分が正しい、自分の信仰が確実だと思ったので、主のことばを十分聞き入れませんでした。二つ目の理由は、ペテロの自慢でした。ペテロはほかの弟子たちを見下げて、自分のしっかりした信仰と忠誠を誇りました。自分の信仰が全然崩れないと思いましたが、彼は間違いました。箴言16:18で言っているように、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」ペテロが失敗した三つ目の理由は、ペテロが祈りの必要性を忘れたからだと思います。主イエスは教えとご自分の模範によって、誘惑された時必ず祈らなければならないということを強調されました。主が逮捕される前に、弟子たちを強く訓戒して言われました。(26:41)「誘惑に陥らないように目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」誘惑されているとき、祈るべきですが、ペテロは祈りませんでした。ペテロが失敗した四つ目の理由は、未信者と交じって、クリスチャンである自分が未信者のまねをすれば、安全だろうと思ったからです。ある意味で、ペテロはクリスチャン「スパイ」としてその中庭に入り込んで、情報を集めようとしました。しかし信者にとっては、そのような方法はだめです。キリスト信者であれば、キリストの光を輝かせなければなりません。主イエスの弟子たちが、「世界の光です」と主は言われました。だから、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」とイエス様は教えられました。ペテロはその光を隠そうとしたので、愛する主イエス様を「知らない」と言いながら、証の機会を失ってしまいました。
 マタイの福音書の中でペテロの名前は24回ほど現れます。ペテロは特にこの福音書において目立っている人物です。弟子たちの指導者とか代表するスポークスマンとしてよく見えます。「ペテロ」すなわち「石」または[岩]と名づけられたこの弟子は力強くて、信仰の厚い人でしょう。しかし、このペテロは普通の弱い人間です。ほかの弟子たちよりもすぐれた弟子ではありません。結局彼は、弟子の大切な役割、すなわち主イエスについて証する務めがすっかりめちゃめちゃになりました。そして、ここは、ペテロの名前が記された最後のところです。「ナザレのイエスを知らない」と三回ほど言ったペテロはここで自分の罪深さを自覚して、激しく泣いた。これからマタイ伝の終わりまで、ペテロの名前は見えません。実は、ほかの弟子たちも、マタイ伝の終わりまでその名前は全然見えません。主イエスの裁きの間も、十字架上の苦しみの間も、復活された時も、主の12弟子はみえません。しかしペテロ自身とほかの10人の弟子たちは生き残ります。マタイの福音書28:10で復活された主イエスは女の信者たちにこう言われました。「恐れてはいけません。行って、 わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」そこで、生き残っている11人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登りました。ペテロを含めて、主イエスから逃げて散り散りしてしまった弟子たちは再び集められて、主の使徒たちとして世界に派遣されたのです。特に心に留めていただきたいことはこれです。それは、ペテロを始め、ユダ以外の11人の弟子たちは、主イエス・キリストに赦されて、和解されたということです。皆は失敗したのに、皆はそれぞれ自分の罪を認めて、悔い改めて、復活された主イエスに従う弟子、または使徒として再び受け入れられました。ペテロを始め、すべての弟子たちは誘惑に負けて、失敗しました。しかし、ほとんどの弟子たちは悔い改めた上で、赦していただき、主イエスの仲間にまた受け入れられました。そして、主に立ち返って後、その弟子たちに大切な宣教の使命がゆだねられました。その体験によって、ペテロを始め、11人の弟子たちは、信仰が確立されて、霊的に成長することができました。

 11人の弟子たちにとっては、そうでした。彼らは、りっぱな使徒たちになりました。しかし、イスカリオテのユダだけは違います。これからユダの最期の物語を考えてみましょう。

III. JUDAS’ TRAGIC END
 
 ユダは主イエスを裏切って、お金を儲けるために主を敵の手に渡した者として覚えていますね。それはそうです。しかし、ペテロは、主が与えられた務めを捨てて、自分が主イエスの弟子である事実を堅く否定してしまいました。それもひどい失敗だったでしょう。それでは、どうしてペテロのほうは赦され、主の弟子として元通りにされたが、その反面において、ユダは赦されなかったのでしょうか。マタイの記録だけ読めば、この質問に答えるのは難しいでしょう。たとえば、マタイ伝によると、ユダは自分の失敗を認めて、次のようにその間違いを取り消そうとしました。まず、27:3に書いてあるように、ユダはイエス様が罪に定められたのを知って、後悔しました。それに、宮に行って祭司長と長老たちに自分の罪を告白したし、イエス様が無罪であることをはっきりと断言しました。主を裏切って、渡すのに応じてユダの受けた銀貨三十枚を祭司長に返そうとしたが、彼らは受けませんでした。しかし、主イエスをだまして捕え、殺そうと相談していた祭司長や長老たちは、後悔したユダを見下して、彼に、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言いました。ユダは自分の大きな失敗を後悔し、その罪を出来る限り取り消そうとしました。しかし、彼はどうやっても、自分の犯した罪を元通りにすることが出来ませんでした。その現状を認めるとすぐ、ユダは「外に出て行って、首をつった。」と4節で言っています。ユダの自殺は福音書の中でこのマタイによる福音書だけに記されたのです。ユダについて主イエスは次のように26:24で預言されました。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」イエス様はユダのために何の希望も提供されませんでした。結局、赦しを受けず、恵みも望みも無しに、ユダは死んでしまいました。

IV. WHY DID PETER RECOVER, BUT JUDAS DID NOT?

 どうして、失敗した後、ペテロのほうは罪の赦しを得て、前の地位に戻されたのでしょうか。なぜ、ユダのほうは、自分の罪を負っているままで、死んで裁かれたのでしょうか。聖書においては、この問題に応じて二つの答えが与えられます。しかし、ほかの聖書個所に書いてあります。まず、コリント人への手紙第二7:10をお開きください。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」と書いてあります。ペテロのほうは、自分の罪を自覚して、心が深く刺されて悲しんだでしょう。「彼は出て行って、激しく泣いた」と書いてあります。彼は、昔のイザヤと同じように、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王を、この目で見たのだから。」と思ったでしょう。ペテロは、自分の罪を取り消して、自分の心をきよめるために何も出来ないことが分かりました。自分が「もうだめだ」と深く感じて、ペテロは神様の御前で激しく泣いた。ペテロの高慢は、そのとき、完全に破壊されました。でも、ユダは違います。自分の能力や行ないによって罪とその結果を取り消すことが出来るだろうと思いました。しかし、彼はどうしても出来ませんでした。自分の計画は全く挫折したので、最後に後悔を感じたのに悔い改めないで、ユダは自分の命を捨てたのです。ユダは、「神のみこころに添った悲しみ」、すなわち「救いに至る悔い改めを生じさせる」悲しみを持っていませんでした。こういうわけで、ユダは、罪の赦しが与えられませんでした。 それに、この質問に対してもう一つの答えがあります。ペテロは鶏が鳴くのを聞いて、主イエスの言われたことばを思い出しました。やっぱり、主イエスの言われたことばは皆、信頼できることばです。主イエスはペテロの失敗だけではなく、ペテロの回復も預言されたのです。もしペテロの大失敗が実現したのなら、その回復も実現されるに違いありません。ルカの福音書22:31を一応ご覧ください。弟子たちとともにまだ主の晩餐の食卓に囲んでいるうちに、主イエスはペテロに向かってこう言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペテロの大失敗から立ち直る主な理由はここに書いてあります。それは、ペテロ自身が立ち直るための諸条件を満たしたからではありません。むしろ、主イエス・キリストはペテロを顧みて、彼のためにとりなして祈ってくださったからです。主イエスは天の父なる神様の聖なる御座の前で、あなたのためにとりなしてくださいましたら、だれもユダのように、人生を絶望や破滅の中で終えることはありません。イエス様はあなたがたのために祈ってくださいましたら、どんなに大変な失敗になっても、あなたは必ず立ち直るのです。ペテロは、主の言われたことばを覚えて、ひどい罪を赦していただき、立ち直ってから、力強い信仰の岩と教会の柱となりました。キリストの言われたことばによって立ち直る希望が与えられますし、主イエスの贖いのわざと力によって失敗した私たちは赦されて救われます。

 ペテロの失敗とその回復からこの大切なこと学び、覚えてください。どんなにりっぱなキリスト信者であっても、あなたもいつか誘惑された時に失敗します。昔も、今も、いつまでもそうです。誘惑に負けなかった方はおひとりだけです。しかし失敗することのない主イエス・キリストがあなたとともにおられるのなら、あなたは失敗しても立ち直ります。詩篇37:23-24を心に貯えてください。主のすばらしい約束を覚えていてください。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」お祈りいたします。

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